第2282回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2281話 舞鶴要港部 司令官 百武 三郎 海軍中将のこと。
2018年11月17日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
大正13年当時、戦後の現在と違って、軍港内の風景などを撮影することは
厳しく制限され、厳禁されていて、なかなか当時の写真が少ないのが現状です。
真珠湾のように 港の入り口が狭く、 内海が広がっていて、海面の穏やかな
天然のよい軍港でありました。
要港部の司令官は、私達が訪れた当時は、 百武 三郎 海軍中将でありました。
大正13年当時から 昭和の戦中は、百武三兄弟 というニックネームというか
人々から尊敬を集める 軍人一家であったのです。
【 大正13年当時 舞鶴要港部 司令官 百武 三郎 海軍中将 】
ことを広く宣伝していた 昭和10年頃、 その報道に影響を受けた陸軍士官が
翌年の昭和11年2月26日に武力決起をして、 何も決められない帝国議会を
無くして、天皇による御新政を行おうとするわけですが、 襲撃された事件の
後に、昭和天皇を侍従武官としておささえした人としても知られています。
なにしろ その当時、 百武 三郎氏 は 海軍大将、 弟の 源吾 氏も
海軍大将で、 兄弟で 海軍大将になったので 百武家は 武門の誉れとして
語られ、 さらに もう一人の弟の 晴吉氏も 陸軍中将で、3人とも閣下と
呼ばれる 身分になって戦前の当時は有名な御一家であったのです。
そういう軍人一家の、百武 三郎 海軍中将の統帥する 舞鶴要港部という
軍港に私達は到着し、当時私は、「 ほうーーーっ ここが舞鶴言うとこかいな。」
と山を削って、土地を無理矢理造成し、 いろんな軍事施設が無数にあった
のですが、珍しいあまり風景に気をとられていたのを記憶しています。
【 明日に続く。】