第2484回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2483回 日本海練習艦隊 舞鶴石炭貯蔵所のこと。


                     2018年11月19日月曜日の投稿です。




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    【 前話の続きより。】


   1924年 大正13年の8月の後半、 日本海練習艦隊の 浅間、出雲

 八雲の3隻は、現在の京都府舞鶴市 こと、当時の舞鶴要港部という軍港

 の中にある、石炭貯蔵所に横付けして 石炭を登載する作業を行うことに

 なって行ったのです。



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   私達、海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生が乗り組んでいた3隻の

 練習艦は石炭を燃やして蒸気タービンを回して推進力をえる艦艇であったの

 です。

  
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 実は当時の最新艦は、重油を燃料としていたのです。

 どうして石炭艦が無くなっていき、 重油などの液体燃料を登載する艦艇が

 増えていったかというと、 重油の方が艦に登載するのが楽で、石炭より

 たくさん積み込めることがわかったからです。



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   重油の方が 燃料を多く登載できるということは艦の航続力が長くなるわけで

  自然と 石炭燃料は廃れていったのです。



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    何しろ石炭をベルトコンペアーのようなもので積むのならよいのですが

   大正13年当時は、手でバケツリレーのようなことをして登載作業を行っていた

   のです。



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                【  大正13年撮影 石炭登載時の作業服姿 】


   それはそれは白い作業服が、真っ黒くなる程度 すごい作業でありました。


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  ところで 海軍兵学校の卒業時の成績順に 先任番号が決まっていくのですが

 私は調度真ん中であったのです。

 そして 運が悪いところに、下から石炭の入った竹籠を受け取って、頭の上に

 持ち上げて 次の人に渡す作業を行うことになって行ったのです。

 当時の私の記憶によると、 経理学校の少尉候補生がバケツリレーのように

 石炭を受け渡しを行い、 そして機関学校の少尉候補生が同様にしてバケツ

 リレーをしていくわけです。

機関少尉候補生の先任の福谷 英二少尉候補生から、 海軍兵学校の佐野 

重士候補生が受取り、 伊藤 信雄候補生、 平井 又雄候補生ーーー

31名ほど続いて、 魚住 頼一候補生まで来て、「 よっこらっ。」と、私の

ところまで来るわけです。


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   1度や、2度なら良いのですがーー、3回、4回、ーーーどんどん続くわけです。

 8月のかんかん照りの気温の高い焼け付く中での作業ですから、そして、水を

 飲むことも許されないわけです。

 これらの作業は、 当時、八雲の機関長であった 山崎 雅雄 海軍機関少佐が

 全体の統帥を行い、 実務は分隊長の 小野 絆 機関少佐が指揮を採っていて

 小野 機関少佐が、 大声で号令をかけるのですが、 だんだん どうでも良く

 なってきましてーーー。


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   腕が 肩から上にあがらなくなって行ったのです。

   多くの少尉候補生が、「 俺は海軍を辞めたくなった。」と 愚痴をこぼす程度

   大変な作業であったのを記憶しています。


   【 明日に続く。】