第2486回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年11月21日水曜日の投稿です。
1924年 大正13年の8月後半、私達、海軍兵学校 第五十二期の
本日は 当時の写真を紹介しながら 珍しいお話しなどを紹介していきたいと
思います。
信濃川の河口付近に投錨したのです。
当時の練習艦隊 司令部 先任参謀 日暮 豊年 海軍中佐がどうして
新潟停泊を選定したのかと言う事は、当時、私達には伝えられず、私達も「 なん
で こないなところに連れて来られたんかいな。」と、思っていたのですが、戦後
こうして当時の写真を振り返って見ますと、 それなりに深い意味があったのです。
当時の古川司令長官 曰く。
「 最新の技術を見て、時代の流れを悟れ。」 と語られていたのを記憶して
います。
何を見学する予定であったのかというと、2代目の信濃川にかけられた
萬代橋【まんだいはし】を見学することであったのです。
明治19年に初代の萬代橋が竣工したのですが、明治41年の新潟大火で
飛び火して焼けてしまい、私達が見に行ったのは、翌年の明治42年に竣工
した2代目の萬代橋でありました。
当時聞いたのが、 総工費12万6千円というお話しでありました。
はがきが2銭の時代でありましたので、 それはそれは途方もない金額で
「ほぅーーーーっ。」と、当時 思ったものです。
その後、昭和4年に すぐ近くに3代目の萬代橋が建設されることになって
行ったのです。
信濃川の当時の川幅が782メートルもあって、 橋がかけられる以前は
渡船での往来であったそうです。
そして手こぎの船の場合、 片道1時間ほどかかっていたそうです。
つまり、往復すると 2時間程度川を渡る時間を要していたそうです。
当時、「 ほうーーーすごいもんやなーー、これが 川かいな、 どうみても
海やなーーー。」 と、眺めたものです。
【 当時の新潟停車場 】
ところで私達は 萬代橋を見学した後、艦に帰るのかと思っていると、別の場所に
転進させられ、なんと内陸のある場所に移動する事になっていったのです。
いつものことで、 行き先、 理由などの説明もなく、ただ、ただ ついて行く
だけであったのです。
【 明日に続く。】