第2488回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年11月23日金曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1924年 大正13年8月下旬、私達は新潟市より15キロ程度内陸にある
採掘プラントを見学することになって行ったのです。
「 なんゃっ、 温泉とちゃうやん。」 と、がっかりしたのですが、夏の暑い
かんかん照りの中、 喉の渇きを辛抱して、団体行動に遅れてはあかんと思い
一生懸命歩いたのを記憶しています。
【 大正13年撮影 新津 日本石油會社工場の様子 】
当時、印象に残っているのが、浅間、出雲、八雲の兵学校の少尉候補生や
という職が当時あったのです。
勝久 機関少佐が、「 これより 司令部機関長の吉岡 保貞 機関大佐より
訓示を賜る。」 と大声でお話しがあり、私達は 吉岡 保貞 機関大佐の原油
のお話しをお伺いすることになって行ったのです。
揮発油【きはつゆ】とは、戦後で言うのガソリンのことで、当時そう呼んでいた
のです。
そして、どんどん 石炭を用いる艦艇が少なくなっていき、重油を用いる艦艇
が今後どんどん増えていくであろうというお話しがあったと思います。
そして、ここの新津の油田は、大日本帝国にとって今後非常に大切な場所に
なるに違いないというお話しがあり、古くは日本書紀に燃土、燃水と記載され、
朝廷への献上品であったとか、そんな説明をしていただいたのを記憶してい
ます。
戦後、振り返って見ると、この練習艦隊 司令部機関長 吉岡 保貞 機関
大佐がその後 機関中将に進級され、婿養子にしたのが 第一航空戦隊 航空
乙参謀の吉岡 忠一 海軍少佐でありました。
南雲 忠一 海軍中将と同じ忠一という名前で、息子のようにかわいがられていた
吉岡 忠一 航空乙参謀のお父さんであったのです。
彼は病気で赤城病院に入院した 源田の替わりに、昭和17年6月、ミッドウェイ
作戦の航空機による攻撃計画を立案し、草鹿参謀長に提案することになるのです
が、運命の糸は この当時からつながっていたのかも知れません。
私達が見学しに訪れた、新津の油田の産出量がもっと多ければ、大東亜
戦争も発生してなかったと思います。
私も源田もそして他の少尉候補生の誰1人として想像はしていませんでした。
【 明日に続く。】