第2491回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2490話 日本海練習艦隊 教練砲撃戦のこと。



                       2018年11月26日月曜日の投稿です。




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             【  練習艦 八雲 艦長 鹿江 三郎 海軍大佐 】



    【 前話の続きより。】


   私達が乗り組んでいた練習艦 八雲の艦長 鹿江 三郎 海軍大佐が


  「 教練、 砲撃戦よーーい。」 と、大声で叫ぶと、 所定の手続きに従って

  戦闘訓練が始まって行ったのです。



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   どこの海軍の艦艇や、戦後の我国の護衛艦もそうですが、常時、その艦の

 持つ能力を常に高く保っていて、いざという時は能力を最大限発揮できる状態に

 保っておくことは大切なことでありました。



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   その当時の 練習艦八雲は、 日本海を北上する 練習艦隊 浅間、出雲

  に随伴して、 つまり 回避行動などは行わず 一直線で平速にて航行し、

  艦の甲板での訓練のみであったのです。

  戦闘配置の号令がかかると、私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生や

  機関学校や経理学校の少尉候補生などは、何をさせられたかというと、大砲

  の操作などはさせてもらえず、 荷物運びや、負傷者の救助、搬送などの

  役目であったのです。



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   機関学校の少尉候補生のお話では、機関室で爆発があって、その負傷者

  を救護所に運ぶという設定で、 上に下に波にあわせて動く艦内を重傷者と

  いう設定の80キロ近い水兵を下から上にあげていく訓練だったそうです。

  これが大変であったと、誰であったかお話しを後で聞いた記憶があります。



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 私達はその点 まだ良かったと言う事になります。

 甲板の上の戦闘で、「 敵、砲弾、着弾。」 「 重軽傷者多数。」 と号令が

 かかると、 砲座の周辺の下士官、水兵がわざと、甲板に横になり、 後に

 控えていた 替わりの兵員が砲の操作を行い、私達は 横になった、負傷し

 たことになっている 下士官、水兵を、甲板の下にある救護所に運ぶ役で

 あったのです。


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   その救護所というのは、 当時の医務室のような場所ではなく、 そうーー

   食堂のような部屋に、 そのまま負傷者の設定の水兵を運び入れていった

   のです。


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        【 大正13年撮影 八雲での 負傷者搬送訓練の様子。 】




  今現在では、こうーー担架にけがをした人を乗せて運ぶのですが

  当時はそうではありませんで、 どうしていたのかと言うと、 むしろのような

  もので 負傷者をくるみまして、 ローブで負傷者を結束し、 上から下に

  みの虫をおろしていくような感じで 負傷者を動かして行ったのです。


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  昭和17年6月 ミッドウェイ作戦の時、空母 赤城に大火災が発生し、鉄の上

 に塗られた塗料が燃えだし、空母 赤城の艦橋に残っていた私は、 艦長の

 青木海軍大佐がロープを支え、私がロープを伝って海上に降りようとした時、

 大爆発が発生し、吹き飛ばされ、両足首を骨折する重傷を負うことになるの

 ですが、 当時 私自身が 簀巻きにされて 運ばれるような立場になる事など

 想像もしていなかったのです。


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   このような訓練を行いながら私達の乗り組む日本海練習艦隊は北海道に

 向けて荒波の中、進んでいったのです。


  【 明日に続く。】