第2492回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2491話 日本海練習艦隊 関東大地震艦上の追悼式のこと。


                          2018年11月27日火曜日の投稿です。



イメージ 1



   
   【 前話の続きより。】




 練習艦 八雲の艦上では、夜中、日中問わず、 突然、戦闘教練や、火災消火

 教練などが繰り返し行われ、私達は、その都度たたき起こされて、訓練に参加

 させられていったのです。



イメージ 2
   

 

  まさに 「 常在戦場。」 という言葉がありますが、その通りの艦内生活で

  あったのです。

  座ったかと思うと、また 次の用事が命令されまして、 時間に追われる

  艦艇生活が続いて行ったのです。

  その訓練を通して、 各分隊下士官や、士官から 少尉候補生は仕事に

  ついて教わっていったのです。


イメージ 3



   ところで、 ラッパ信号が鳴り響き、「 また 訓練かいな。」 と 周囲と

  話しながら甲板に整列し、番号点呼を行って傾注すると 1年前の関東

  大地震の犠牲者を追悼する行事が行われたのです。



イメージ 4



  1年前の 1923年 大正12年の9月1日の正午に発生した 神奈川県

 横浜市戸塚区の現在の戸塚警察署の東、 小雀 という場所を震源にした

 巨大地震の救援活動に、私達海軍兵学校 第五十二期の生徒も志願者を

 募って、 横須賀、横浜に救援活動のため部隊として入って活動したお話しを

 以前紹介したのですが、 それはそれはすごい焼け野原であったのです。



イメージ 7


 総じて、死んだ人と、生きていた人の差は何であったかと言うと、 1階にいた

人は死に、 2階にいた人は助かっていったのです。


イメージ 8



1階が潰れ、2階が1階になっている そんな光景が広がり、 そこに昼の炊事

の火が原因で火災が発生し、 下敷きになった人達を焼き殺していったのです。



イメージ 5



  「 あれから早いものでもうーー1年やがな。」と、思ったものです。




イメージ 6



   私達の部隊が引き揚げた後、 横浜や横須賀がその後どうなっているのか

 当時 大変心配していたのですが、数週間後、 横須賀に入港することになるとは

 当時思いもよりませんでした。

 大正13年の9月は私達は海の上で迎えることになっていったのです。


 【 明日に続く。】