第2495回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年11月30日金曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
残暑の頃の函館という町は、2年前に大火があり、徐々に復興していたという
そう言う感じの時代であったのです。
函館という町は、大正2年の大火の頃に、 路面電車が出来て、私の出身地
の奈良県の葛城より、大きな進んだ町であったのです。
ここに、愛国婦人会 という、 今現在の自衛隊協力会のような組織が当時
あって、 函館の人々に歓迎行事を行っていただいたのを記憶しています。
話しもしたことのない、 ご婦人方に 親切にしていただくと、嬉しいもので、
お茶などを入れていただき、 喉を潤したのです。
「ほうーー なんや、あの服装は。」 と言うと、 「北海道の民族衣装でございま
す。」と言う、 「これが北海道の先住民族の衣装かいな。」 と驚いたり、感心
したりしたものです。
朝鮮半島の人達が戦後、日本人にハングルを禁止されーー云々と言うお話し
をされるようですが、それは、朝鮮半島だけでなく、日本本土を含む 沖縄、台湾
北海道、千島、小笠原などすべての地域も同様であったのです。
子供を労働から解放し、 義務教育を行い、読み、書き、計算が出来る様に
して、 日本の国内では、みんなお話しをすると 意味がわかるように統一する
ということは、国の方針であったのです。
明治の初期、 鹿児島の人と、青森県の人が会話すると 方言で意味が通じず、
こう言う事では、国の発展のために良くないとこうなっていったのです。
当地、北海道もそうであったのです。
アイヌ民族他の現地の部族の人のいろんな方言、言語、 明治になってから
各地から移民ならぬ、入植をしてきた いろんな人の地方の言葉、 これを
共通語という言葉で 統一していく必要があったのです。
そういう事情で、 大日本帝国の臣民は、すべて 共通語を話しなさいと言うの
は、朝鮮半島だけでなく、すべての地域がそうであったのです。
部隊の中でも、 青森県の出身の整備員がいたとします。
「 もうすこし うしろずら。」 などと、声をかけても、 燃料トラックの運転席の
台湾出身の人に意思が通じないでは、困るわけです。
そう言うわけで 当時、私達も 故郷の言葉は使用禁止とされていたのです。
彼女らに、 御礼の気持ちも込めて、 函館湾で短艇での各艦対抗の競技を披露
することになっていったのです。
当然、私もそれに参加することになって行ったのです。
【 明日に続く。】