第2496回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2495話 日本海練習艦隊 函館 短艇競技のこと。


                          2018年12月01日土曜日の投稿です。




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  【 前話の続きより。】


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  1924年の大正13年9月初旬、私達、海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生

は、北海道の函館の湾内で 短艇の競技を行うことになって行ったのです。

冬場、強風が吹いて、波が押し寄せる 函館湾も当時は 暑い程度で心地よい

潮風が吹いていたのです。


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  当時の記憶によると、ラッパ信号が鳴って、急いで甲板に整列すると、鬼塚

分隊長殿から訓示があり、 おおよそ次の如しでありました。

 練習艦 浅間、 出雲、八雲 という艦艇は、 12分隊に当時別れていて、

 その分隊から志願者を募って、 つまり達者な人員を選抜して 12隻、 さらに

海軍兵学校出身少尉候補生組、 海軍機関学校少尉候補生組、 海軍経理学校

少尉候補生組、 合計15隻を抽出し、 合計45隻にて、優劣を競う物なりとの

お話しであったのです。

 以前お話ししたように、 当時私は何事も積極的に目立つことを考えておりまして

「それではーーーー。」 と、 話があると、 話がある前に手をあげまして、「 志願

いたします。」 と、大声を出して、 みんなからクスクス笑われたのを記憶しています。


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 それを見ていた 分隊長の鬼塚 武二海軍大尉が、「 貴様、そそかしいやつめ。」

とじろりと睨まれまして、 「 あーーー、 続きの話とは、 優勝した短艇には、艦隊

司令部より商品が出るそうである。」 「 わかっておるであろうが、負けた場合、制裁

訓練があるそうであるから、覚悟して志願するように。」 などと お話しがあり、私は

1番にその競技に出る事を希望したのです。 

こうして、浅間、 出雲、 八雲から 15隻の短艇が出場し、 合計45隻の短艇

優劣を競うことになって行ったのです。



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    おやっ と見ると、練習艦 出雲の短艇に源田少尉候補生の姿があって

  「これは負けてはあかん。」と、当時 愚かにも どうやって 功名をあげようかと

  周囲の人の事を配慮せず、 おのれのことばかり考えていたのでした。


 【 明日に続く。】