第2502回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2501話 日本海練習艦隊 大湊要港部協議のこと。


                      2018年12月7日金曜日の投稿です。




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 1924年 大正13年の9月、 私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生

は、青森県下北半島にある大湊要港部という場所を訪れ、投錨したのです。



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                   【 大正13年撮影  大湊要港部 】


   ところで私達の卒業アルバムのような写真帳 練習艦隊写真帳には


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     冬の雪中行軍のような写真が掲載されていて、「 貴様ら、スキーを

    行ったのか。」 と、 先輩達に問われることがあったのですが、これは

    あわせ物の写真なのです。



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   いくらなんでも 9月に雪が降るわけがありません。

   練習艦隊 司令部では、当時、 日暮 先任参謀を中心に 登山計画を立案

   していたと言い伝えがあるのですが、 それは行われなかったのです。



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                    【 大正13年撮影 恐山の遠景  】


   何故 登山計画が消えたのかというと、 その原因は 高松宮殿下の容体が

 思わしくなく、 どうするのかと言う事について 極秘に司令部内で打ち合わせが

 あったとされています。

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                【 大正13年撮影 高松宮 宣仁殿下 】


    1つの提案が、 大湊要港部の海軍病院で 数週間療養された後、御付き

   武官と一緒に 陸路鉄道で東京に戻るという案 と、 そのまま浅間に乗って

   横須賀の海軍病院に入院するという案が検討されたそうです。

   前者の案は、 古川 鈊三郎 練習艦隊司令官によって却下されたそうです。

   と言うのが、 練習艦隊司令部が 高松宮殿下を大湊に置き去りにして

   艦隊を動かしたと批判されるのを恐れた事と、艦艇で横須賀に転進した方が

   ほんの数日で到着するので 早く横須賀に寝たまま艦艇で移動された方が

   よろしいとなった様です。


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   後の言い伝えでは、 七田 今朝一 海軍大佐から、 浅間の3名の軍医と

   司令部附き2名の軍医の意見として、 高松宮殿下の 体調不良の素因は

   脚気という病気の上に、 艦が 揺れることによって 船酔いとなり、食事を

   とっても 吐き気で吐いてしまい、 それが数日続いたことが直接の原因で

   陸路、東京に向かわれた方がよろしいのではないかと提案したそうです。

   つまり、船酔いの人を、さらに 船酔いになる艦船で移動させるとさらに

   容体が悪化する可能性が高いというわけです。



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            【 練習艦隊 軍医長 石黒 順二 軍医大佐 】


    そういうお話しが出て来るのは、 東北の三陸沖の太平洋側は 波が高くて

   艦が 揺れるのです。

   数日とは言え、 そんな海が荒れて 艦が上下する場所を通過して横須賀

   に向かうのに 殿下が耐えられるのか と言う事について、議論が交わされた

   ようです。



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           【 練習艦隊 司令長官 古川 鈊三郎 海軍中将 】


   結局、 最後の決定は 古川 鈊三郎 司令長官が、大湊で少し様子を

   見た後、 浅間に 殿下を載せたまま、横須賀に向かうことが決定された

   そうです。

   こうして、私達は、 予定を切り上げて 神奈川県の横須賀に向かうことに

   なって行ったのですが、 これらの経緯は当時 極秘とされ、知らされる

   ことは無かったのです。


   【 明日に続く。】