第2503回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年12月8日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
古川 鈊三郎 海軍中将らが極秘に高松宮殿下の病状について打ち合わせを
行っていた当時、 私達は何をさせられていたかというと、 登山が予定変更となり
まして、 当時 大湊要港部の前に 城ヶ崎とか言う砂浜がありまして、ここで
訓練をさせられる事になったのです。
当時、 船酔いで体調を崩す少尉候補生が多く、 砂浜で体を動かして
体調回復につなげることがその目的であったようです。
砂浜での陸戦訓練は、練習艦隊 先任参謀 日暮 豊年 海軍中佐によって
計画が立案されて、 浅間、出雲、八雲の3艦の部隊によって実行されていった
のです。
私達は 甲板に集合させられ、 浅間、出雲、八雲の3艦から陸戦部隊を
抽出し、 それぞれの部隊で評定を行い、評価の低い部隊は制裁訓練をかす
とのお話しを聞いて艦の武器庫から陸戦装備ををとりだして訓練を行うことに
なって行ったのです。
【 大正13年9月 大湊での陸戦訓練の様子 】
これらを使用して訓練することになったのです。
訓練するのは良いのですが、保管庫から 出す時と 納める時が 大変でして
冷や汗ものでした。
砂浜に持って出るわけですから 海水にでも浸かったりすると 大変な事に
なるわけです。
私達は、扱い方、分解整備の方法をおおよそ聞いて、 持ち出して訓練
することになっていったのです。
「 行きはよいよい 帰りが怖い。」と言う言葉がありますが、艦登載陸戦兵器を
持ち出して、 砂浜の砂がどうしてもついてしまい、整備に悲鳴をあげることに
なっていったのです。
【 明日に続く。】