第2509回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年12月14日金曜日の投稿です。
1924年 大正13年の9月中旬、 私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉
当時の横須賀は、以前紹介したのですが、1年前の 大正12年9月1日
海津波、 そしてその後の火災で甚大な被害を受けて焼け野原になっていたの
です。
以前、当時の横須賀鎮守府司令長官 副官であった 草鹿 龍之介 海軍
大尉こと 後の海軍中将の当時の記憶話を紹介したのですが、海から津波が
押しよせ、 同時に 崖崩れが多数発生し、 民家や 人達を飲み込み、正午の
炊事の火が 倒壊した家屋に燃え移り、 あっという間に火の海になって行った
そうです。
1階は押しつぶされ、2階が1階となり、閉じ込められた人達が 猛火に生きた
まま焼かれていったのです。
神奈川県の鎌倉でも 海から津波が押しよせ、多くの民家が押し倒され、
海に引き込まれていったそうです。
そんな 神奈川県の沿岸でしたが、 私達は ちょうど 大地震発生後の
1年後に 横須賀鎮守府に入港したのです。
当時の風景というのは、焼け跡に バラックの小屋が建っている そんな
横須賀の風景でありました。
ところで 当時私達はまったく知らされてなかったのですが、浅間に乗り込まれて
です。
転院であったそうです。
当時、横須賀の海軍病院は甚大な被害を受けて、設備もよろしからず、それより
戦艦 長門の 病室がよろしかろうとなったようです。
たのは、殿下を 長門に転院させようという そういう判断だったようです。
【 明日に続く。】