第2514回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2513話 大日本帝国憲法の大きな重大欠陥のこと。


                          2018年12月19日水曜日の投稿です。




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          【 大正13年9月当時の内閣総理大臣 加藤 高明 子爵 】



   日本で初めて、東京帝国大学卒で、 そして 選挙によって内閣総理大臣

 なった 三菱財閥の岩崎 弥太郎氏の娘婿 加藤 高明 子爵は、豊富な現金

 を、 そうーー車で言えば、ガソリンのように使用して 何も決定できない状態で

 あった帝国議会にエンジンを始動して 動かして行ったのです。

 しかし 彼にもどうにも出来ない事があったのが、陸軍大臣海軍大臣であった

 のです。

 そうーー軍閥であったのです。




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                    【 脳を病んでいた 大正天皇 】


  大正13年の当時、 今は無いのですが 静岡県沼津市御用邸があって

 そこに大正天皇が暮らしていたのですが、 脳内出血で記憶障害が発生し、

 自分が誰であるのかわからない、 今で言う若年性痴呆症の症状を発症され、

 国事行為の代行は、 東宮裕仁殿下が摂政として代行されていたのです。




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              【 摂政 東宮裕仁殿下 後の 昭和天皇 】


 この摂政の下に、陸軍と海軍があって、 戦前は内閣総理大臣に軍隊の統帥権

 がなかったのです。

 軍隊の指揮、指導は、大日本帝国憲法では天皇が行う事になっていたのです。


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さらに ややこしいことに、Aという法案を、三菱財閥が根回しをして、議会を通過

しても、 陸軍大臣海軍大臣のいずれかが 署名 花押捺印しないと成立しない

仕組みになっていたのです。

「 陸軍は、反対である。」 と、陸軍大臣が反対すると、なにも決定できなかった

のです。

 そして、「 海軍は、絶対反対であります。」 と 反対すると、帝国議会でAという

法案が通過しても、廃案になって行ったのです。

そして、陸軍大臣 及び 海軍大臣のいずれかが、 腹を立てて、「 辞任する。」

と、申立てると、内閣総辞職を行う必要があったのです。

 このような状態で、政界の実力者であった山縣 有朋 公が死去すると、長い

期間空転して何も決定できない時期が続いて行ったのです。



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               【 当時の陸軍大臣 宇垣 一成 陸軍大将 】


  それでは、陸軍大臣海軍大臣と事前に打ち合わせを行い、根回しを

  すれば良いではないかとこうなるのですが、 それもダメであったのです。

  どういうことかというと、 当時の陸軍大臣海軍大臣は 代理人であったの

  です。

  陸軍大臣の 宇垣 一成さんは、 病気療養中の 長州閥の田中 義一陸軍大将

  の代理人で、 海軍大臣の 財部 彪 さんは、 妻の父親の 山本 権兵衛 

  海軍大将の代理人であったのです。


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              【 当時の海軍大臣 財部 彪 海軍大将  】


 そのような事情で、 三菱財閥のオーナー 加藤 高明 内閣総理大臣は、

 帝国議会議席数が少なく、単独採決が出来ない 憲政党の舵取りと、 陸軍

 と海軍の機嫌をとりながら難しい舵取りを行う事になっていったのです。

 

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                      【  当時の 国会議事堂 】


    つまり、 大日本帝国の政治を動かして行くには、陸軍と海軍が進んで

  内閣に協力してくれないと、何も出来ない法律であったのです。

  そこで、頭の良い 加藤 高明 内閣総理大臣は知恵を絞ったようです。

  どうしたら 陸軍と海軍が進んで協力してくれるのか、そして彼は尼港事件を

  利用し、 社会主義者共産主義者を利用して 軍部をコントロールしていこ

  うと考えたようです。


   【 明日に続く。】