第2521回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2520話 ルドルフ ヘス 副総統の先生のこと。
2018年12月26日水曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
前話で 刑務所に入れられて しょんぼりして 食欲の無かった ヒットラーを
について、 つまり出所後にどのような方法で自分達の権力を大きくしていくか
という事について 討論を行う事を盛んに行ったというお話しを紹介しました。
1924年 大正13年の夏、 後の ナチスの副総統となる ルドルフ ヘス
を訪ねて ある老人が ヒットラーの収監されていた ランッベルク刑務所に
やってきたとされています。
【 ヒットラーとヘスが収監されていた ランッベルク刑務所 】
その人は ミュンヘンの大学の教授で、 教え子のヘスの身の上を案じて、
わざわざ 面会にやってきたそうです。
の講義を担当していた カール ハウスフォーファー教授であったそうです。
であったと言い伝えがあります。
当時、教え子のヘスの身の上を心配していた ハウス ホーファー教授は、
ヘスの暴走をいさめると供に、「今後の事は何事も自重して慎重に行動するよう
に。」と、心配して語りかけたとされています。
そして ヒットラーとも 一緒に話をしたそうです。
わずかな時間で、ヒットラーも学生のように教授のお話に聞き入ったそうです。
あったそうです。
伍長のヒットラーも 静かに彼のお話しを聞いて、多いに影響を受けたとされて
います。
初期の 国家社会主義ドイツ労働者党の頃の 思想というか、考え方の
基本は カール ハウスホーファー教授の影響が大きかったとされていて、
併合していった行動というのは、この教授の考えを実際に行動にしていった
ことだったと言われています。
どういうことかという、 諸国に散らばっている ドイツ民族を1つにして、大きな
国家を打ち立てる必要があるとする考えです。
ヒットラーは、この教授の下で勉強していた ヘスから、教授の考え、物の見方など
多くの事を聞いて覚えていったそうです。
こういう思想を 「 東方生存圏構想。」 と、当時彼等は呼んでいたそうです。
わずか半年程度の刑務所暮らしだったそうですが、 ヒットラー曰く、「 世に
とって ランッベルク刑務所は 大学であった。」 と語っていたそうですが、
ヘスから 多くの事を聞いて 覚えていったようです。
みなさん この文章を読んでいる人の中で、会社組織や、現代社会において
主役になれない人、 例えば、刑務所の中で この文章を読んでいる人も
いらっしゃるかもしれません。
ヒットラーは、刑務所から出て、わずか10年程度で 国会議員となり、政権を
とったのです。
彼は 登校拒否の児童で、小学校も満足に出席していない 勉強の出来ない
子供で 友達もいない 寂しい児童でした。
数学も出来ない、話をしても文字がよくわからず 文章が書くことが苦手な人で
ありました。
そんな彼が どうしてそういう成功を収めていったのか、それが魅力でもあり
世界中の多くの人が研究する課題でもあります。
物事に取り組んでいたという点については、まねが難しい部分です。
彼等は、第1次世界大戦で 命をかけて 殺し合いをする過程で そういう
習慣を身につけていったのです。
相手を先に殺してしまうか、 自分が相手に殺されるか、動物のように
周囲を見回し、世の中を歩いていたのです。
それ以外は、みなさんの方が優れていて 学力も条件もよいと思います。
みんな手と足があって、手には指が5本ずつあるわけです。
投げやりにならずに、彼等の行動を検証して 未来に役立て、数年後には
読者のみなさんも、時代は違えど、社会の主役になれるかも知れません。
カエサルを夢見る人にはなってはなりません。
よい部分だけ吸収して、悪い部分は切って捨てて、 自分の人生に生かして
いただけたらと思います。
【明日に続く。】