第2523回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
2018年12月28日金曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1日も早く、合法的に刑務所を出所して、自由になる為にはどうしたらよいのか
そして、最良の方法とはどうあるべきなのかーーーーと。
当時35才であった アドルフヒットラーにその答えを伝えたのは、後の副総統
となる ルドルフ ヘス であったとされています。
その解答とは、 「 早期に保釈の申請を行う。」 と 言うことであったのです。
その保釈の条件を満たすために いったい自分達は何を行うのがよいかと考えた
そうです。
出て来た答えが、 周囲の看守に親切にして、行儀よく、犬の様にして、
親近感を与え、 刑務所の所長に良い報告をさせ、模範囚の格好を整える
という事であったそうです。
そして、それを下地にして、 看守、 所長の愛国主義を煽り、自らの考えに
同調を求めていこうという、 そういう計画をヘスと一緒に考えたそうです。
看守や所長の愛国心を揺さぶる道具として、ヘスが作ったのが、後の「 世の
闘争。」 こと、戦後で言う「 我闘争。」と言う文章であったとされています。
1924年の当時、 これを本にして配るとか、 そんな計画はなくて、自分の
ドイツを大切に考えている思想を、看守や所長に読んでもらおうと始めたとされて
います。
だから 当時は これが本になるとは 思っていなかったというのが事実のよう
です。
もう一つ ヒットラー達が考えた作戦というのが、刑務所の外に 自分達を支援する
組織を新たに造るという方法でした。
ランッベルク刑務所は通常の刑務所より緩やかな規則でしたが、自由な外出は
無理であったので、刑務所の外に支援組織を造って その組織を動かして、自分達
の保釈活動を行わせようという作戦だったとされています。
その中心人物が ワーグナー婦人であったとされています。
ワーグナーの子孫の妻で 当時27才であったのです。
彼女とヒットラーがどのような経緯で出会い、そしてどんな関係であったのかと
いうのは諸説があって、 有力な説は 不倫関係にあったとか、 ヒットラーの
愛人であったとか唱える人がいますが真相はわかりませんが 初期の頃から
女性の1人であったということは動かしがたい事実のようです。
ヘスが使用する、用紙などの文房具や、食べ物などの差し入れをずっと行って
いたとされています。
私の推測ですが、 以前、ヒットラーがオペラの主役の女性に夢中になり、
戦後の現在で言う おっかけ のような事をしているうちに、ユダヤ人の暴力
取り立て組織に狙われ、国外逃亡したお話しを紹介したのですが、 初対面の
彼女は聞き役に徹して、 ヒットラーが一方的に自分の見たこと、考えを語り、
運営の参考にしていたようです。
親切にしていたという事は動かしようのない事実とされています。
しかし、 男と女の愛人関係であったのか どうかと言うことは証拠は残っていま
せん。
ヒットラーは、彼女を仲介人にして、 刑務所の外で支援する組織を刑務所に
いながら 造っていったとされています。
もし、今、 あなたが拘置所や刑務所に収監されていたとしたら、投げやりに
なり、暴力事件を起こしたり、周囲の人に迷惑をかけるのをやめて、ヒットラー
達の行った事を検証して、模倣すれば、 ヒットラー達のように5年の刑期が
わずか半年で 仮出所出来るかも知れません。
あったのかと言うことは 次回に一緒に勉強して行きましょう。
【 明日に続く。】