第2532回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
2019年1月6日日曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
政治の主導権を1924年 大正13年5月にベルリン政府追随派から奪うと
おおよそ 次の様な政治方針であったとされています。
第1に、バイエルンの 政治、経済、秩序の安定。
それには、 ワイマール共和國なる ベルリン政府の政治から独立して、バイエル
ンは、バイエルンで独自の経済と金融政策を進め、混乱しているベルリン政府の
金融政策から、いち早くバイエルンは距離を置くべきである。
人を襲い、害を与える不良外国人をバイエルン共和國から追放し、ドイツ人が安心
して暮らせる 治安維持を行う必要があると考えていたそうです。
ヒットラーも 不良外国人のリストの中の1人であったそうです。
当時の法務大臣のギュルトナー元陸軍大尉らは考えたようです。
ヒットラーの発言していることは 自分達の考えと同様であるが、彼が出所
した後、 今度はバイエルン共和國内で 自分達の批判を繰り返し演説されて
はまずいと考えたようです。
そこで ヒットラー達に 釘を打ち込んでおこうと考えたようです。
行ったとされています。
との密約と呼ばれているそうです。
その密約の取り決めとは次の様な内容であったとされています。
1、暴力による破壊活動や行動は行わない。
2、人民党への批判演説は行わない。
3、これからは民主的な方法で政治活動を行う。
4、 当分の間、 ヒットラーの政党の活動は政府が許可しない。
5、 バイエルン共和國の政治には 口出しを行わない。
つまり、 自分達が行う バイエルン共和國の統治について干渉しない。
という取り決めであったとされています。
みなさん こうして1924年の冬の12月初旬、ヒットラーは人生2回目の
刑務所暮らしに ピリオドを打って 社会復帰をしたとされています。
ヒットラーの自首、逮捕から約1年、
刑務所に収監されて約8ヶ月後の出来事であったそうです。
壊滅状態になった 国家社会主義ドイツ労働者党 が、 体制を整え、わずか
数年で 国会議員数名を ドイツのベルリンに送り込む政党に急成長していった
のは、 選挙組織とその党費の集金システムにあったとされています。
ナチスの 選挙の後援会の仕組みとは どのような仕組みであったのか、
ヒットラーが 電話をかけると 動員が末端の組織まで速やかに伝えられ、
すぐさま 数万人の動員が可能であったそうです。
いったい 国家社会主義ドイツ労働者党 の連絡網はどうなっていたのか、
鉄の結束をほこっていた ヒットラーの後援会組織は どのような組織であった
のか、 そして 誰が作っていって、動かしていたのか、
ヒットラーの組織を0から作り、実務を取り仕切っていたのは ルドルフ
ヘスであったとされています。
東方生存圏構想を研究し、そして 二等兵から 少尉に進級した 軍隊での
経験を生かして ヒットラーの選挙後援会を造っていったのです。
今回のヒットラーの刑務所での様子のお話しはここまでにして、私が
練習艦隊の外洋航海から戻ったお話しの後に 日本の歴史に多大な
影響を与え、515事件や、226事件などに影響を与えたヒットラーの政治
のお話しの続きを紹介したいと予定しています。
そうーー ヒットラーの起こしていった戦争に、日本も巻き込まれていった
のです。
【 明日に続く。】