第2552回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
2019年1月26日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
夜間の電灯艦飾【 でんとうかんしょく】という 夜の光による演出の翌朝の
ことですが、私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生の部隊は、当時の
名古屋離宮への転進命令を受けたのです。
の事です。
名古屋城の管理を行っていたのです。
明治10年頃、つまり西南戦争の頃、 莫大な維持管理費のかかる江戸時代の
倒壊してしまう 天守閣などを民間の業者に払い下げて処分してしまおうという
そう言う計画がどんどん進んでいって、 姫路城の天守なども 民間の解体屋
に二足三文で 払い下げられていったのです。
【 3代 内閣総理大臣 山縣 有朋 公 】
そう言う計画に待ったをかけて、 城郭を保存するように政府を動かして行った
のが 山縣 有朋 公であったと伝えられています。
以前、政治家の善悪の計量というお話しで、どんな政治家も、良い事も行って
いて悪い事も行っていて、問題はその比率であるとのお話しを紹介したのですが、
明治12年 山縣 有朋 公の周辺の尽力で、 名古屋城は 解体を免れて
名古屋離宮 という名称で保存され、 部分的に 陸軍の第3師団の司令部
などで使用され、維持管理がされていったのです。
私達は、 その名古屋離宮に見学と称して、 見物に行く事になったのです。
みんな、「 久しぶりに 物見遊山が出来る。」 と 周囲が喜んでいたのを
記憶しています。
【 明日に続く。】