第2553回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
2019年1月27日 日曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
と紹介したのですが、 私達は 見学と称して、 見物しに 名古屋離宮に行く事に
なっていったのです。
その当時の写真が 私達の卒業アルバムのような写真帳に載っています。
それが このページです。
これが 1924年 大正13年の 戦災で焼失する前の名古屋の市内の
様子です。
戦後の現在 走ってはいないですが、路面電車が 名古屋の市内を走って
いたのです。
物であったのです。
当時、「 すごいもんやなーーーーえっーーーー。」 と 見物したのを記憶して
おります。
まあ 何しろ すごい太い 柱であったのを記憶しています。
本丸御殿の ふすまのトラの画も 立派な作品でありました。
我国の戦闘機が、 陸軍、海軍と バラバラでなく、統一された
空軍として組織され、 その能力が高く、 パイロットの数がもっと
多く養成できていたら、防空力がもっと高かったら、 名古屋空襲
戦災で焼失することも無かったのではと考えると 残念で仕方あり
ません。
確かに日本海軍航空隊は 1人で倍、いや3倍の能力を発揮して戦って
いました。
これで どうして 相手に勝てないのか、 もともと 10分の1の工業力の
大日本帝国が、 国力を 半分にして、 つまり 陸軍と海軍で物資を分けて
陸軍と海軍が 交換性のない 飛行機を作っていたのです。
飛行できないと申し立てるーー。」 そうすると 20対1に戦力が低下して、
陸軍の航空隊は 中国大陸にあって、 海軍の航空隊は太平洋の島に
展開していてと、兵力が分散されていったのです。
海軍航空隊の諸氏が、命を投げ打って 相手に挑んでも、 相手は撃っても
撃っても どんどん押しよせて来たのです。
陸軍と海軍に分散されている航空兵力を統合し、 そして航空機の生産設備
を陸軍と海軍の航空機を統合して 航空総隊 を結成して 戦おうと提唱した
のが 私と同期の 源田 實 海軍大佐であったのです。
もっと 強い戦闘機部隊、 戦闘機で 制空権が確保されていれば 爆撃
など受ける事もなかったのです。
戦闘機の戦力が低いので 敵の侵入を許し、 多くの人が爆撃で亡くなって
いくという悲劇が発生していったのです。
これから 時間をかけて 昔話をしながら 振り返って見たいと思っています。
【 明日に続く。】