第2553回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2552話 日本海練習艦隊 名古屋離宮訪問のこと。


                      2019年1月27日 日曜日の投稿です。




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  【 前話の続きより。】


 1924年 大正13年の10月頃、 愛知県の名古屋市名古屋城は、宮内省

陸軍省が管理していて、 その名を 名古屋離宮 【 なごやりきゅう 】と呼んでいた

と紹介したのですが、 私達は 見学と称して、 見物しに 名古屋離宮に行く事に

なっていったのです。



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    その当時の写真が 私達の卒業アルバムのような写真帳に載っています。



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    それが このページです。



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    これが 1924年 大正13年の 戦災で焼失する前の名古屋の市内の

   様子です。

   戦後の現在 走ってはいないですが、路面電車が 名古屋の市内を走って

   いたのです。



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             【 大正13年 当時の 名古屋城天守閣の写真 】



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                  【 焼失した 名古屋城天守閣 】



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  戦後の名古屋城天守閣は、鉄筋コンクリートで出来ていますが、私達が

  訪問した当時は、姫路城や、彦根城や、犬山城のように 木造の大きな建築

  物であったのです。


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  当時、「 すごいもんやなーーーーえっーーーー。」 と 見物したのを記憶して

  おります。



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  まあ 何しろ すごい太い 柱であったのを記憶しています。



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     本丸御殿の ふすまのトラの画も 立派な作品でありました。


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         我国の戦闘機が、 陸軍、海軍と バラバラでなく、統一された

        空軍として組織され、 その能力が高く、 パイロットの数がもっと

        多く養成できていたら、防空力がもっと高かったら、 名古屋空襲

        など許す前に 相手を撃墜出来ていたら、 名古屋城天守

        戦災で焼失することも無かったのではと考えると 残念で仕方あり

        ません。


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   確かに日本海軍航空隊は 1人で倍、いや3倍の能力を発揮して戦って

   いました。

   これで どうして 相手に勝てないのか、 もともと 10分の1の工業力の

   大日本帝国が、 国力を 半分にして、 つまり 陸軍と海軍で物資を分けて

   陸軍と海軍が 交換性のない 飛行機を作っていたのです。

   プロペラも違う、 機銃の弾薬の交換性もない、 陸軍のパイロットは「海上

   飛行できないと申し立てるーー。」 そうすると 20対1に戦力が低下して、

   陸軍の航空隊は 中国大陸にあって、 海軍の航空隊は太平洋の島に

   展開していてと、兵力が分散されていったのです。 


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    海軍航空隊の諸氏が、命を投げ打って 相手に挑んでも、 相手は撃っても
   
   撃っても どんどん押しよせて来たのです。


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   陸軍と海軍に分散されている航空兵力を統合し、 そして航空機の生産設備

   を陸軍と海軍の航空機を統合して 航空総隊 を結成して 戦おうと提唱した

   のが 私と同期の 源田 實 海軍大佐であったのです。


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    もっと 強い戦闘機部隊、 戦闘機で 制空権が確保されていれば 爆撃

   など受ける事もなかったのです。

   戦闘機の戦力が低いので 敵の侵入を許し、 多くの人が爆撃で亡くなって

   いくという悲劇が発生していったのです。

   これから 時間をかけて 昔話をしながら 振り返って見たいと思っています。


  【 明日に続く。】