第2555回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】
2019年1月29日 火曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
私達は 名古屋の熱田神宮に参拝することになって行ったのですが
する神社であったそうです。
つまり、大昔から 皇室に所縁の深い 神社であったのです。
その 剣の名前が 草薙の剣 【 くさなぎのつるぎ】と呼びまして、治承 寿永
の乱 と呼ばれる 通称 源平の合戦の頃、 平家が この草薙の剣を 安徳天皇
と一緒に 壇ノ浦まで移動させて、 そのまま海中に安徳天皇と一緒に入水し、
行方不明となっていったとされています。
当時、 源 頼朝が 義経に必ず 草薙の剣を取り返して、京の都に持ち帰る
ようにと命じていたことがかなわず、 両者の仲違いの原因になっていったとさ
れています。
その後、 壇ノ浦の水中に沈んだ 草薙の剣を 次の天皇であった、後鳥羽
上皇があの手、この手で 必死に 海中を捜索させたという 言い伝えがのこっ
ているそうです。
当時、私は、 どういう経緯で、草薙の剣が熱田神宮にあるのか知りたいと
思ったのですが、 口には出しませんでした。
もしかしたら、 鎌倉時代以後に 再度 作り直された剣かも知れません。
桶狭間の合戦の前に 戦勝を祈願したというお話しが紹介されたのです。
司令長官は、ここ 熱田神宮が 武人にとって 非常に縁起がよい場所で
あると言う事を私達に伝えたかったようです。
大軍であった 駿河の今川 義元 公を打ち破った戦いとして知られていますが
今では、諸説があって、 最新の研究では 奇襲ではなく、 正面からぶつかり
今川勢の周囲に深田があって そこに足を取られて 動きが出来なくなったと
ころに 尾張勢が、 今川勢の本陣に切り込んでいき、 今川勢は 本陣の軍勢
のみで応戦して敗れていったとする研究が発表されています。
大変 興味深い発表ですが、 実際は どうであったのか、私も興味が
つきません。
そして 織田 信長公 は、織田信秀の長男とされてきたのですが、最新の研究
では 3男であったとされています。
兄弟を 皆殺しにして、尾張を統一していったようです。
私達は、見学と称して、 名古屋を見物して歩いて、なかなかよい思い出の
大正13年の10月の愛知県 名古屋市への上陸でありました。
【 明日に続く。】