第2555回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2554話 日本海練習艦隊 熱田神宮参拝のこと。


                        2019年1月29日 火曜日の投稿です。




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   【 前話の続きより。】



    私達は 名古屋の熱田神宮に参拝することになって行ったのですが

   ここの神社は、 天皇の身分を示す、 三種の神器のうちの 剣を安置

   する神社であったそうです。

   つまり、大昔から 皇室に所縁の深い 神社であったのです。



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  その 剣の名前が 草薙の剣 【 くさなぎのつるぎ】と呼びまして、治承 寿永

の乱 と呼ばれる 通称 源平の合戦の頃、 平家が この草薙の剣を 安徳天皇

と一緒に 壇ノ浦まで移動させて、 そのまま海中に安徳天皇と一緒に入水し、

行方不明となっていったとされています。

 当時、 源 頼朝が 義経に必ず 草薙の剣を取り返して、京の都に持ち帰る

 ようにと命じていたことがかなわず、 両者の仲違いの原因になっていったとさ

 れています。


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  その後、 壇ノ浦の水中に沈んだ 草薙の剣を 次の天皇であった、後鳥羽

 上皇があの手、この手で 必死に 海中を捜索させたという 言い伝えがのこっ

 ているそうです。

 当時、私は、 どういう経緯で、草薙の剣が熱田神宮にあるのか知りたいと

 思ったのですが、 口には出しませんでした。

 もしかしたら、 鎌倉時代以後に 再度 作り直された剣かも知れません。




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  熱田神宮で 練習艦隊 司令長官 百武 三郎 海軍中将から訓示があり、

  永禄3年1560年5月19日に 織田信長公が この熱田神宮を訪れ、

  桶狭間の合戦の前に 戦勝を祈願したというお話しが紹介されたのです。



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    司令長官は、ここ 熱田神宮が 武人にとって 非常に縁起がよい場所で

   あると言う事を私達に伝えたかったようです。

   この永禄3年の桶狭間の合戦は、 清洲の城から、信長公が単身で出撃し、



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  大軍であった 駿河の今川 義元 公を打ち破った戦いとして知られていますが

  今では、諸説があって、 最新の研究では 奇襲ではなく、 正面からぶつかり

  今川勢の周囲に深田があって そこに足を取られて 動きが出来なくなったと

  ころに 尾張勢が、 今川勢の本陣に切り込んでいき、 今川勢は 本陣の軍勢

  のみで応戦して敗れていったとする研究が発表されています。

  大変 興味深い発表ですが、 実際は どうであったのか、私も興味が

  つきません。


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 そして 織田 信長公 は、織田信秀の長男とされてきたのですが、最新の研究

では 3男であったとされています。

兄弟を 皆殺しにして、尾張を統一していったようです。 

 

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  私達は、見学と称して、 名古屋を見物して歩いて、なかなかよい思い出の

 大正13年の10月の愛知県 名古屋市への上陸でありました。


 【 明日に続く。】