第2558回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2557話 日本海練習艦隊 高松宮殿下事件のこと。


                          2019年2月1日金曜日の投稿です。




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   【 前話の続きより。】


  1924年 大正13年の11月に入り、私達は 自分達の艦の練習艦 八雲に

 物資をバケツリレーのような感じで どんどん積み込んでいたのです。

 そんな当時、 私達の知らない場所では「 どうするのか、そんなことは出来ない。」

 と、練習艦隊司令部で判断を決めかねる大きな事件が発生していたのです。



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           【 大正13年11月当時の練習艦隊司令部 集合写真】



  その問題とは何かと言うと、 戦艦 長門の中の長門病院に入院されている

  海軍兵学校 第五十二期卒業生の 高松宮宣仁親王殿下を外洋練習航海に

  お連れするのか、 横須賀においていくのか、という事に議論が紛糾していった

  そうです。



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                      【 高松宮宣仁 親王殿下 】


  ある人は、 「 甘やかしては殿下のためにならん。」 と、強行に 練習航海

 にお連れしようという佐官や、 「 殿下1人だけ、五十二期の中から 落ちこぼれ

 のように置いていっては、皇室の品位にかかわる。」 と申立、殿下を練習航海

 にお連れしようという佐官、 ずっと 黙り込んで 発言しない 佐官 とに別れて

 いたようです。

 そして、 もし 強行に病人である殿下を 艦が大きく揺れる太平洋へお連れ

 して 病状が悪化して まんいちのことがあったら、 司令部の全員は切腹もの

 であると考えて、 殿下をお連れすることをためらう意見もあったそうです。




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  この問題、ついに練習艦隊 司令部では最終判断を行わず、当時の戦艦長門

が所属する第一艦隊の司令部や、 海軍省に判断を委ねたそうです。

練習艦隊司令部としては、高松宮殿下に浅間にお戻りいただき、外洋練習航海

 を行う事が望ましいと考える。」 との意見を付けたようです。




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                 【 当時の海軍大臣 財部 彪 海軍大将 】


  ところで その決定は 海軍省に持ち込まれ、 当時の海軍大臣であった

  財部 彪 海軍大将が 右か 左かを判断する事になっていったそうです。

  こうして、海軍省に 当時の 高松宮宣仁 親王殿下の皇族附武官 の

  山中 豊中 海軍中佐 と桑折 英三郎 海軍少佐が呼び出されることになって

  いったのです。


  【 明日に続く。】