第2572回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2571話 日本海練習艦隊 砲測通信のこと。



                         2019年2月16日土曜日の投稿です。



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  【 前話の続きより。】

  横須賀を出港して7日目の1924年 大正13年11月17日 どう言うわけか 

 日々暑くなり、 そんな中、 私達は甲板に集められ、 演習を行うことを命令を

 されて、忙しく、あれや、これや、 つまり雑用を命令されていったのです。



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  当時の戦闘配置 というのは、スピーカーのようなものは当時もあったのですが

 戦闘中は 大砲の大きな音で かき消されてしまうので、 基本的には手旗信号

 や、手信号、 そして 黒板に 文字を大きく記入して、みんなに知らせるという

 いろんな手法が行われていたのです。 



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           【 太平洋上で 大正13年撮影 浅間にて、 】


 それから、戦後の今現在はどうかしりませんが、 ロープを 爆風で飛んでくる

飛来物よけに使用していたり 少し変わったことを当時は行っていたのです。


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         【 大正13年撮影 太平洋上にて 砲測通信の様子 】


  上の写真は 珍しい大正13年当時の太平洋上での写真で、砲測通信と言って

砲撃を測定して、次の発射の仰角、方位角を伝える通信の様子で、非常に原始的

な 伝声管のような、 そんな通信風景です。

当時は、 砲声で聞こえない 砲弾観測員の声を次弾発射の為に いかに早く正確

に伝えるのかという事について 試行錯誤の時代であったのです。



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  伝令が走って各砲に伝えていたのでは、遅くなってしまいます。

  では、大声や、マイクで伝えようとしても 砲声で聞こえないのです。

  手旗信号や、手信号で伝えようしていたら、 発射の煙でよく見えないのです。

  そういう事情で、 海軍の頭の良い人達が 当時 いろんな知恵を絞って

  行き着いていったのが 伝声管のような 砲測通信という方法であったのです。



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  いよいよ 太平洋上で 大砲をぶっ放す 砲撃教練が始まって行ったのです。



  【明日に続く。】