第2574回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2573話 日本海練習艦隊 第1回基本演習のこと。


                          2019年2月18日月曜日の投稿です。




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【前話の続きより。】


 横須賀鎮守府を出港して7日後の1924年 大正13年11月17日 私達 日本

海軍練習艦隊の浅間、八雲、出雲の3隻は、太平洋のウェーキ島の北の海域で、

対艦戦闘教練演習をおこなったのです。


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  上の写真は おおよその距離を測定する 望遠鏡のような測定器です。



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    信号旗、 黒板、 伝声管、拡声器でほぼ同時に 命令が砲術長より

  発令されます。



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  この当時の主砲は、 金属の砲弾をまず装填し、 装薬袋 と言いまして

  小銃の銃弾とは違いまして、 金属薬莢などは無く、 わかりやすく表現すると

  火薬の袋があって、 それを 金属砲弾の後に装填するわけです。

  砲撃の距離によって 装薬袋を 2つ、3つ、と増やしていくのです。

  この作業、 大変な命がけの作業で、 運が悪いと、 砲撃の熱を持った

  砲身に 火薬袋を装填して、 砲塔内で爆発する事故が発生したことが

  数回あります。

  あれは 戦艦 日向の3番砲塔だったか、たしか記憶によると そうだったと

  思いますが、 パスン と音がして、 白い煙が砲口から立ち上り、砲弾が

  ポンと 砲口から飛び出して、 数十メートル先の海面に落下して、「何を

  やっとる。」 と当時 冷ややかに見ていたら、実は 砲塔の中で爆発して

  砲塔内の50数名全員バラバラに消し飛んで殉職するという事故もあったの

  です。 


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   発射すると、 それはそれは 大きな音がしまして、 周囲に爆風が来るわけ

  です。

  戦後は、 いかに遠くにミサイルを飛ばして、相手を撃退するかということが

  中心ですが、 当時は、 同様に、いかに遠くに砲弾を飛ばして、いかに正確

  に遠くの目標に対して命中弾を打ち込むかということが中心であったのです。



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    大砲屋 と呼ばれる 日本海軍の佐官が進級するには、毎年9月に決まって

  紅白に別れて大規模演習があって、 ここで優秀な砲撃の訓練成果を内外に

  アピールし、 よい成績を残すと、 11月の 海軍の定期移動人事で進級できた

  のです。

  それ故に、 砲術長などになった佐官は、 やかましい程度 下士官、水兵に

  命令を出して、演習成果を上げようとしていったのです。


  【 明日に続く。】