第26回 MGCと月刊 モデルガンチャレンジャーを偲ぶ。
読者の皆さん、こんにちは、今日は日曜日です。良い天気なのですが、風が強くて、庭で、赤とんぼの水上機の
複葉機をスプレー吹きしていたところ、風で、横転、「ヒィー。」土がついてしまいました。
土に、フラットアルミの色がついてしまい。破損はしなかったのですが、複葉機の二枚バネで、縮尺が32分1の
為、風を受けると、すぐ飛んでいってしまうのでした。
となりのおばさんが、成り行きを見ていたのか、窓の向こうで、笑い声が聞こえてきました。
全く、今日は作業をやめて、古本を見ることにしました。
自宅で、今日のおやつを作ることにしたのですが、となりの部屋から、「われも、補給をのぞむ。」と発光信号で、
意見具申があったのですが,昨日、買った本を見て、「又 変な本かってきてー。」と、けなされたため、一緒に作
るまいかと一瞬思ったのですが、けんかになったらいけないので、黙って一緒に作ることにしました。
昨日買った本です。すこしページをめくると、千葉県の松戸駐屯地の、一日の料理の紹介がしてありました。
とれも、高度で、筆者でも作れそうなメニューはないものかと、探したところ、ありました。作れそうなメニューが。
焼きそばです。 レシピを見ながら作ります。あっという間に出来上がり。
こんな感じになり、食べてみると、もう少しお肉をたくさん入れると、さらに良くなるように思います。
焼きそばを、食べながら、昔の古本を見ます。 昭和と平成のモデルガンの歴史を考察する場合、この人をさけ
きのみきのまま、米国に移住、はじめはバイトで、好きな拳銃のレポートを白黒で月刊 GUN誌に、投稿していた
らしい、はじめのレポートは、昭和52年、テッド 今井じいさんの、射撃レンジのレポート、そのうち、自分も射撃
を勉強しなくては、と思ったらしく、ポリスと一緒に、PPCシューティングを始めて、日本に紹介したのも、イチロー
氏です。
当時、ウエスタンブームが去り、警察の規制で、金色のモデルガンになり、人気が低迷していた、業界でした。
彼が、撮影した写真は、美しく、モデルガンメーカーの国際は、これをモデルガンとして販売したところ、大ヒット。
しかし、月刊コンバットマガジンが、創刊すると、イチロー氏は、引き抜かれました。
そこで、アメリカのコンバットシューティングを次々日本に紹介、それにあわせて、モデルガンを発売すると、又々
あれは、たしか、家畜に色をつけるペイントハンドガンで、打ち合いをする記事だつたと思います。
そして、彼が紹介して、ブームになったのが、ガバメントカスタム、ボブチャゥワン、から始まり、いろいろなカスタ
ムを紹介していきました。
イチロー氏は、自分が出場する、45ガバメントのコンバットマッチを詳細にレポートし、日本国内でも、モデルガ
ンで、試合が行われるようになりました。
それに目をつけたのが、モデルガンメーカーのMGCでした。月刊 モデルガン チャレンジャーという雑誌を立ち
上げ、イチロー氏を招聘し、それにあわせて、商品を販売していき、ブームになりました。
これらの、マッチゲームなども開催され、一時代を築きました。
そんな時代のプラスチックモデルガンは、プラモデルの模型のように、組み立て式のキットが販売されるようにな
り、プラモデルと同じ感じのモデルガンとなっていきました。
筆者の所有のピンガンの紹介です。