第553回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第552話  海軍兵学校 遠泳の作法の事。       2013年8月27日 火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
  江田内の海に入った私達は、 後から教官の声で、「 全員注目。」と、声がかかり、後を
 
振り返ったのであった。
 
 
  「赤い水泳帽は、右に集合、 その他の生徒は、左に集合。」と、声がかかると、私達は、腰まで、
 
海水につかりながら、そのように、隊列を作ったのであった。
 
 
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       教官が、海に入り、みんなに説明したのは、 1時間でも、長く海面に浮いている
 
泳ぎ方で、 軍艦が、なにがしかの理由で、だめになり、 海に飛び込んで、救助を待つ場合、
 
速く泳ぐ必要はないわけである。
 
   常に、海面から、平泳ぎのように、頭を出して、水没しないようにして、 独特な泳ぎ方であった。
 
 戦後で言うもクロールとかいう、泳法は、速く泳げるのであるが、体力の消耗が激しく、内海の
 
波の少ない場所であれば、速く泳いで、岸に着けるのであるが、外洋の場合、波がと゜んどん、
 
かぶるような海域では、 いずれ長時間の水泳は、困難である。
 
    教官の教えは、 外洋では、体力の消耗を少しでも、押さえながら、1分でも、長く、浮いている
 
 ことを目指す泳法で、 そういう点で゛は、私が教えを受けた、伊勢の観海流の泳法とよく似ていた
 
のであった。
 
 
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         みんな、教官の泳ぎを見学して、 一人、手を上げて質問する生徒がいたのである。
 
       教官は、 「 おい、貴様、なにか用事か。」と、言うと、 「 第10分隊 柴田武雄生徒で
 
       あります、 質問があるのでありますがーー。」と、言うと、教官は、「 うん  いうてみよ。」
 
       と指示があったので、 柴田生徒が、「 今までの戦訓では、 どのくらいで味方の救助が
 
       あるのでしょうか。」と、質問すると、教官は、「 うーーん、2日程度は、飲まず食わずで、
 
       浮いておらんといかんという、覚悟が必要である。」と、お話があり、 私達は、明日は
 
       我身と、感じて真剣に、この泳法に取り組んだのである。
 
 
 
 
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       この柴田武雄生徒、のちに、大西中将と源田の、飛行理論を否定して、大西閣下と殴り合い
 
       になり、私達とは反対に、フィリピンのクラーク方面を、大東亜戦争の開戦で、制空隊を指揮
 
       して、活躍し、のちに海軍大佐となり、 ドイツ渡りのロケット兵器 「秋水」 で攻撃隊を、
 
       編成し、私より一足先に、 戦争中、軍人のまま、 新興宗教をおこして、 部下の兵士を、
 
       入信させて、お告げで、物事を決定し、 いろいろするのであるが、ひとかどの注目に値する
 
       印象に残る人物であった。
 
        又、順序をおって、同期の柴田武男生徒の事は、後日紹介したい。
 
       
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          授業は、その後、初心者と、経験者とに別れて、行われたのであるが、
 
 
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                          【空母 加賀   昭和初期頃 】
 
 
         あれは、昭和4年の出来事であったが、 それから8年後、 空母加賀の偵察分隊
 
      の辞令を受け取り、茨城県土浦市霞ヶ浦海軍航空隊より、よろこんで空母加賀に赴任して、
 
      南西諸島方面を飛行中、墜落し、顔面を負傷して、波の高い外洋の海に、私は投げ出され
 
      たのであるが、その時、 この授業の泳法が、私の命を救ったのであった。
 
      思い出話は、つきないのであるが、 また、順序をおって、紹介して行きたい。
 
 
【次回に続く。】