第582回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第581話 海軍兵学校 相撲の事。        2013年9月25日 水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
   海軍兵学校では、 他の武道の合間に、相撲【すもう】 を、稽古することが

あって、 なぜか、この相撲だけは、どこかの相撲部屋の親方とか、関取が、指導

に来るとか、私が在校中、一切無かったのです。
 
  来校して、 1度本当の横綱や、大関の取り組みを見て見たいと思っていた

のです。

 当時は、角力 と書いて、すもう と読んでいました。

 今日のお話は、角力とは書かず、 相撲と書いてお話しをさせていただきます。 
 
 
 
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どういう仕組みであったかというと、練兵場で、ふんどしを締めまして、横に

広がって、まずは、事故防止に準備運動をするわけです。
 
 教官の、「ビィ、 ビィ。」という、笛の音に合わせて、準備体操をしていくのです。
 
で、 この相撲の授業、ヒマな時間が多いのです。  なぜかというと、海軍兵学校

には、相撲用の土俵があるのですが、 ここでは、みなさんご存じのように、2人

だけしか取り組みが出来ません。
 
 
 
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  大正時代の当時は、土俵が2つ作ってありまして、 ここで分隊事に、取り組み

が行われるのです。
 
当時の指導方針として、 とにかく前に出て、 江田島精神で、相手にあたっていく、

そういう事が重点的に指導されました。
 
 
 
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当時の相撲は、とにかく相手を土俵の外に出す、こういう相撲で、 今の戦後の

大相撲のように、 上手投げとか、小手投げとか、 そういう、大きな技は、決まり

ませんでしたし、教官から教わりませんでした。
 
 
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 1番よくありましたのが、突き出しと、呼ばれる技と、 寄り切りという技でした。
 
 あんまり、突っ張りばかりしていると、 行司役の分隊監事附の下士官に、
 
「 貴様、 ちゃんと、ふんどしのまわしを持たんか。」と、たまに注意を受けることも
 
 あったのです。
 
 
 
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相撲の時間は、待って、仲間の取り組みを見学するという時間が多く、そのうち、
 
 
 
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海軍兵学校も、どういう判断であったのか、 私が鹿児島の航空基地で、後輩に

尋ねたところ、だんだんと、授業が短縮され、 昭和の15年頃は、 1年の内、5月

に相撲の授業がある程度で、 なくなりはしなかったものの、 どんどんと、縮小され

ていったようです。
 
 
【次回に続く。  転載、コピー可 自由。】