第613回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第612話  大正7年の疫病の流行の事。         2013年10月26日 土曜日の投稿です。 
 
 
 
 
 
 
 
 
    
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      ちょうど日本陸軍第3師団、第7師団の将兵が、ウラジオストックに上陸していた頃、
 
 
 
 
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   以前紹介したように、 米の価格が、3倍に跳ね上がり、 味噌、塩、その他の生活必需品も、
 
   必要のない買い占めや、 悪徳商人によって、 値段がつり上げられ、 原 敬の指示で、
 
   新聞報道が繰り返され、 全国に騒動が起こり、 さらに、 炭鉱での労働争議に発展し、
 
 
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       国内が、混乱したのは、以前紹介させていただきました。
 
        ちょうどこの頃、 東京を中心に、 疫病がはやりまして、多くの人がこの病気にかかり、
 
       お亡くなりになったのです。
 
 
       その数は、はっきりした数字はないのですが、約15万人程度と言われています。
 
 
        医学が原始的な当時、原因がわからず、 医者も、藪医者なので、おかしな薬を出して、
 
        金だけ高い銭を取っていたようで、 貧乏な庶民は、家で布団をかぶって、寝ることしか
 
        出来なかったのです。
 
 
 
 
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          この様子を観察していた、原 敬は、 さらに配下の新聞社に根回しして、
 
         疫病の記事を書いて、 表向きは、疫病予防の記事だったのですが、 庶民の
 
         不安をあおっていったのでした。
 
 
 
         これもなにもかも、政治が悪いからだと、日本全国から批判が、陸軍に集中し、
 
 
 
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         又、陸軍出身の当時の内閣総理大臣寺内正毅 大将は、 姿の見えない疫病に
 
        手のうちようがなく、 記録によりますと、 約15万人ほど、お亡くなりになったそうです。
 
        
         
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                  【 当時の内閣総理大臣 寺内 正毅 陸軍大将 】
 
 
     ちょうど、レーニンが狙撃された、8月後半、 寺内総理が、めまいを訴え、倒れてしまい、
 
     内閣総理大臣が、疫病にかかるという、事件に発展し、 当時の新聞記者は、さらに、
 
     疫病の記事を書いて、 配り歩いたので、 国民は、不安な日々を送っていたのでした。
 
     この15万人もの死者を出した、 疫病の正体は、戦後の研究では、スペイン風邪か、
 
     悪性の強い、インフルエンザではなかったのかと、推測されているのですが、
 
     内閣総理大臣は、 病気が回復せず、 大正7年の9月24日 病気を理由に、 辞職し、
 
     入院生活となるわけですが、よくならず、 寺内首相は、翌年 病気で、死去されます。
 
 
 
 
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    神奈川県の小田原市古稀庵の山縣有朋侯爵は、 寺内大将の後任に、陸軍の都合のよい
 
 
 
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  内閣総理大臣をと、考えたのですが、  陸軍の中では、既に財政が破綻しかけていて、
 
   疫病がはやり、 米騒動、炭鉱の労働争議などが続き、 山縣有朋侯爵の希望する
 
   軍人に声をかけたのですが、引き受け手がなかったのでした。
 
 
 
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    また、内閣総理大臣のイスを、海軍の山本権兵衛一派に、渡してしまうと、陸軍が
 
   不利になると考え、海軍の台頭を阻止して、 現状の混乱を収拾する総理大臣として、
 
    華族出身の、西園寺元内閣総理大臣に、陸軍から、内閣総理大臣に推薦するから、
 
    再度、総理大臣にならないかと、打診したのですが、 西園寺元内閣総理大臣は、
 
 
 
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               【 当時の陸軍参謀総長 上原大将  独断専行が多かった。】
 
    以前、西園寺内閣の当時の陸軍大臣、上原大将に、 国庫の予算が枯渇しているのに、陸軍
 
    に2個師団増設要求を繰り返され、 拒否すると、 辞表を出して、 内閣が混乱した経過があり、
 
    その事件で、内閣総理大臣を辞職していたので、 山縣有朋侯爵の要求を丁重に固辞したの
 
    でした。 
 
 
 
     
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      当時の陸軍中将 田中義一閣下は、自分が内閣総理大臣になりたかったようですが、
 
      山縣有朋侯爵の考えの中に、 田中中将は、どうもなかったようで、 寺内総理大臣の
 
      後任選びは、 混沌としてくるのでした。
 
      そして自ら、 根回しして、 将来総理大臣になるべく、自分の立場を固めていくのでした。 
 
 
       
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    当時、立憲政友会の幹事長であった、原 敬は、 海軍省の実力者、山本権兵衛海軍大将と、
 
    都内のある料亭で、密談を持つのでした。
 
 
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        それは、 山縣有朋侯爵を、政治から遠ざけ、 海軍と、立憲政友会の国会議員で、
 
        日本の政治を立て直していこうという提案だったのです。
 
 
 
【 次回に続く。 】