第617回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第616話  東亜研究会 設立の事。 2013年10月29日 水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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 大正7年9月後半 神奈川県小田原市の 古稀庵 という、山縣有朋侯爵の

別邸で茶の湯の会が催されたのでした。
 
 
 
 
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                          亭主は、 山縣有朋侯爵で。
 
 
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              主客に、当時の大蔵大臣、 勝田 主計 
 
 
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           そして、次客 には、 公益社の社長 西原亀三
 
 
 
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三の客には、当時悪性のはやり病で、療養中の寺内正毅内閣総理大臣の息子の
 
 
 
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     陸軍中佐、 寺内寿一 が同席していたのでした、
 
 
     山縣侯爵は、三人に、 北京政府に融資すると見せかけて、 最後に出来

      るだけ資金を集めて、公益社に入れ、 資金を北京政府に仲介をしたというよう

     に偽装し、新たに、政治団体の東亜研究会というのを立ち上げて、証拠が残ら

     ないよう、公益社の資産を移すように、命令を出したのでした。
 
  勝田大蔵大臣には、 その資金の捻出と、 証拠が残らないように、証拠の隠滅、 
 
  西原社長には、 あくまでも公益社は、 北京政府との仲介をしただけであると

    偽装し、過去のお金の流れがわかるようなものは、処分破棄するよう指示が出

    たのです。
 
 
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 寺内寿一 陸軍中佐は、 のちの、大東亜戦争での南方軍総司令官、元帥で、
 
山縣有朋侯爵の後を引きついで、陸軍内で、長州派閥をまとめていく人ですが、
 
親子で、陸軍元帥になった人は、 寺内親子だけでした。
 
山縣有朋侯爵は、寺内中佐に、こう、語りかけたのでした。
 
「 寿一、 父上殿が回復すればよいが、 北京政府の融資に関係する書類を
 
今のうちに、すべて処分しろ、 もれや、残りがあると、必ず、我々や、寺内家の
 
後日災難となって、降りかかる恐れがある。
 
父君に、万が一のことがあれば、 この有朋が後見人になって、 面倒を見るから、
 
わしの言う通りにしておれば、寺内家は、安泰である。」
 
と言うと、  寺内中佐は、 「 承知しました、閣下の御意のままに。」と、返事をした
 
のです。
 
 
 
山縣有朋侯爵の言う通り、 寺内寿一中佐は、翌年、異例のスピードで、大佐に

昇進し、1代限りと思われていた、男爵の位を、山縣有朋侯爵の計らいで、受け

継いで、出世街道を上がっていくのでした。
 
 
 
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山縣有朋侯爵の命令で、 貿易会社 公益社は、 ペーパーカンパーニーのような、
 
形だけに変化していき、 従来の貿易会社は、 東亜研究会という組織に、
 
大正7年後半から、 模様変えしてしまい、 西原亀三が、裏で操る事になるのです。
 
 
この東亜研究会というのは、陸軍の山縣有朋侯爵の系列の軍人を支援する、
 
秘密組織として、活躍していくのですが、 その資金は、北京政府に融資したという
 
事にしてある、資金を、ネコババして、 公益社から移した、資金であったのです。
 
その金額の総額は、途方もない金額で、西原亀三は、これらの資金を動かして、
 
貿易で、回転させていき、 利益を出して、 その資金で、陸軍の軍人政治家の
 
政治資金を捻出していき、 陸軍政権の黒幕と呼ばれるようになっていきます。
 
 
 
 
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昭和の恐慌から、満州事変までの田中内閣の政治資金、裏の金の面倒は、 

西原亀三の東亜研究会が、深く関与して行くようになります。
 
 
 
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山縣有朋侯爵主催の茶会の密室で、 今後の政治のお話が密かに打ち合わさ

れたのですが、 この数日後、 寺内内閣は終わり、新しい内閣が出来ていきます。
 
 
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原 敬 内閣総理大臣が誕生し、 外務大臣に、伊藤内閣時の外務事務次官
 
 
 
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   内田康哉が、官僚として起用された以外は、すべて現職衆議院議員から
 
   閣僚を起用したのでした。
 
   そして、陸軍大臣が、田中義一、 海軍大臣が、加藤友三郎というメンバーで、
 
   議会制民主主義を主張した、原内閣が、スタートしたのですが、海軍や、各方面

    に予算などの約束手形を乱発してのスタートで、波乱の幕開けだったのです。
 
 
【次回に続く。】