第648回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第647話  尼港事件 アムール河渡河作戦の事。

                       2013年11月30日土曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
 大正9年の6月1日、わが海軍第3艦隊は、主力をもって中国艦隊を包囲、制圧し、
 
ニコラエフスク、ラ、アムーレの湾に、投錨し、 海軍陸戦隊を上陸させ、港を制圧し、
 
橋頭堡を作ったのでした。
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
日本海軍は、対岸に布陣している陸軍混成多門支隊、二千の軍勢に、連絡を取り、
 
翌日、随時、 アムール河を渡河して、 ニコラエフスクに、 上陸するよう打ち合わ

せしたのです。
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
  陸軍では、無電で、作戦を受信して、翌日の日の出から、海軍の用意した、
 
 短艇で、順を追って、 陸軍部隊を渡河する作戦を立てたのです。
 
 
 
イメージ 4
 
 
 
 
 大正時代は、 太平洋戦争で出て来る、上陸用舟艇などのような、気の利いた、
 
船舶は、当時は無かったので、 馬にしても、通信機材にしても、短艇で、運んだ

のです。
 
 
 
 
イメージ 5
 
 
宇都宮第14師団の国分中佐の1個大隊が、先陣で、 あとを、北海道、旭川

第7師団 多門二郎大佐の1個大隊が、続いたのですが、 兵力2千人、 その他、

馬、馬車など渡河するのは、大がかりなことで、当時は、大変なことだったのです。
 
大正9年の6月2日日の出より、 随時、小運搬が開始されまして、 なかなか河の

流れが早く、海軍兵と誓って、オールを使うのが、下手なこともあって、数キロ下流

に、渡河する船が続出したのです。
 
 
イメージ 6
 
 
  
 
なんとか、1日かかりまして、随時、国分支隊から、上陸を始め、 港を本陣として、
 
三方の方面に、夜間ゲリラの夜襲があったらいけないので、機関銃分隊を、
 
配置しまして、 川を背にして野営の準備をしたのです。
 
 
 
 
イメージ 7
 
 
 
 
機関銃分隊を、配置し終えますと、早速、分隊規模の、偵察隊が、10キロ四方の
 
 
 
イメージ 8
 
 
行動半径で、偵察が行われたのですが、だれも、発見できず、あるのは惨殺され、
 
 腐敗した、死体のみだったのです。
 
 
 
 
イメージ 9
 
 
    人口1万2000を数えた、港街は、廃墟となり、誰もいなかったのです。
 
 
 
イメージ 10
 
 
               【 大正9年6月の焼け落ちた、日本領事館の古写真 】
 
 
  又、海岸近くの、日本領事館も、門柱を残して、ほぼ、破壊し尽くされていて、
 
 生存者はいなかったのです。
 
 
 
イメージ 11
 
 
 
     当日は、厳重な見張りを行いながら、 野営して、翌日の日の出から、
 
  水戸歩兵第2連隊の兵士と、 日本人居留民の捜索が開始されたのです。
 
 
 
 
イメージ 12
 
 
 
ひとつひとつ、腐敗した死体を並べて、 整理していったのですが、 陸軍兵士は、
 
射殺死体、 日本人居留民は、女、子供も、全員、背後から、斧で、頭や、背中を
 
たたき切って、殺害されており、かわいい女の子も、無残な姿になりはてていたの

です。
 
また、日本人だけでなく、ロシア人も、数千人、同様の状態で、殺害され、 判別が
 
難しいのですが、イギリス人、アメリカ人、ウクライナ人、ポーランド人、ユダヤ人と
 
老若男女、すべて、虐殺されていたのです。
 
 
 
 
イメージ 13
 
 
       
 
日本陸軍、水戸第2連隊、第3大隊石川支隊、300名、全滅、 陸軍憲兵隊全滅
 
 警察署全滅、 ロシア白軍、全滅、 日本人居留民、731名全滅、
 
 
 
イメージ 21
 
 
 又、市内の刑務所なるところに入りますと、腐乱した遺体が、つるされたままに
 
 なっていて、ユダヤ人、ロシア人の市民が縛り首に、されていたのです。
 
 
イメージ 14
 
 
 また、日本人医師の病院に入りますと、日本人医師、看護婦、 患者が、斧で、
 
 
 
イメージ 18
 
 
           後頭部をたたき割られているのが、発見されたのです。
 
 
 
イメージ 15
 
 
   
 
みなさんに、わかりやすく紹介しますと、ロシア人の処刑というのは、当時は銃殺

にすると弾丸が、もったいないと言う事で、 寒い吹雪の中、衣服をはぎ取りまして、 

裸にした上、押さえつけて、 斧で、頭の後から、たたき割るのですが、 ひどい

殺し方になりますと、
 
 
 
イメージ 16
 
 
 
 手や、足を、斧で順番に、切り取って、 むごたらしいやり方で殺すのです。
 
 
 
イメージ 17
 
 
 
旭川、第7師団の多門二郎大佐は、おびただしい、数千近い死体を、当日整理が、
 
出来ず、 翌日も続けたのですが、 アムール河に、投棄された、死体もあるのか、
 
偵察隊より、 川の下流に、おびただしい市民の死体が、たくさんあるとの報告を
 
受けて、翌日調査隊を出すことになったのでした。
 
 
 
イメージ 20
 
 
これらの事は、モールスで、第3艦隊旗艦に座乗している、野間口中将に報告され、
 
海軍省に、打電、報告されたのでした。
 
 
 
 
イメージ 19
 
 
死体の数は、6千体以上になり、 腐乱による、悪臭とハエや虫が集り、一部は、
 
白骨化して、 皇軍兵士の心にぐっと圧迫を与えたのでした。
 
みなさん、共産党の被害に遭われた、可哀想な人々に、黙祷をしてあげていただ

けたらと思います。
 
大正9年6月3日 今から約93年前の出来事でした。
 
 
【次回に続く。】