第650回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第649話 共産ゲリラの調略の事。 2013年12月2日月曜日の投稿です。
大正9年6月10日に、偵察隊に、ロシア白軍のグリコエフ中佐という人物が、タイガの
森の中から名乗り出て、非常に衰弱した様態で、 日本陸軍の本部に担ぎ込まれ、 当時の
事情を聴取して、 ソビエト共産党による、虐殺事件の真相がわかってきたのです。
半年前の 大正9年1月24日に、共産ゲリラ部隊の指導者 ヤーコフ、イヴァーノ、ヴィッチ、
トリャービン という、長い名前の人物は、 この地域で山賊をして、地理に詳しい、オルロフ
と言う人物を使者にして、 「 モスクワ共産党に降伏するように。」と、申し入れてきたらしい
のですが、 日本陸軍の第14師団 水戸歩兵第2連隊の石川正雅少佐は、話を聞いて、
オルロフなる人物に、あくまでも行政権は、ロシア白軍にあるので、そちらと話をするように
とつげて、 使者を、ロシア白軍のメドページェフ大佐に、引き渡したらしいのです。
問題は、ここからで、 その使者を、ロシア白軍は、 山賊であると言う事で、過去の追い
はぎなどの罪状で、処刑してしまったのでありました。
このことが、後日、大量虐殺につながっていくのでした。
海軍の無線施設があった、チヌイラフ陣地が、月が変わって、2月7日に落ちて、 海軍陸戦隊
は日本領事館に石川光犠少佐以下、40名は、逃げ延びたらしいのです。
そして、その陣地を、共産ゲリラは、本部として、利用し、 兵力4千人で、ニコラエフスクの港街
を包囲したらしいのです。
そして、 この町の中を、偵察して、 調略を始めたのです。
いろんな民族がいたわけですが、それぞれ個別に、調略を始めたようです。
どうして、このような事が出来るかと言いますと、守備隊の兵力が少ないので、 それぞれの
兵舎を警備して、維持するだけで手一杯で、 市内全域を、防御することが出来なかったよう
です。
そして、共産ゲリラに、見せかけの好条件の和平案を提示されて、ニコラエフスクの港街は、
ロシア白軍支持の徹底抗戦派と、中立支持の和平派と、 共産党に寝返る勢力とに別れて
いたようです。
ここで、ニコラエフスクの港街の市民が一致団結していたら、 多くの幼い子供まで巻き込んだ、
虐殺事件には、ならなかったのではと、悔やまれてなりません。
【次回に続く。】