第673回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第672話 板挟みの陸軍大臣の事。        2013年12月25日水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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    山縣有朋侯爵の指示で、陸軍参謀総長の上原勇作陸軍大将は、 新聞記者などに、
 
尼港事件の公式発表を行い、 外務省の領事関係者、家族、日本人、民間人 731名、 海軍部隊
 
約50名、 陸軍水戸第2連隊第3大隊及び、憲兵隊、 軍医関係者など、370名の1000人以上が、
 
むごたらしい方法で、女子供を含めて殺害され、 その他、一般市民が、6000人以上、 共産党
 
ゲリラによって、殺害され、 日本人が雇用していた、日本国籍朝鮮人が、 共産党に入党して、 
 
殺害に加わったと、発表すると、新聞各社は、日本全国にこの事実を書いて、津津浦々まで配布して
 
歩いたのでした。
 
 
 
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  大正9年の4月初旬に、 原 敬 内閣は、 アメリカからの金融圧力に屈して、 シベリアからの
 
撤退を、閣議決定し、 関係省庁に発令していたのですが、陸軍省だけが、別の行動をしていたのです。
 
すなわち、樺太への侵攻作戦を隠密に計画し、 又々、派兵の準備を始めたのでした。
 
 
 
 
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 当時の陸軍大臣は、田中 義一 陸軍大将だったのですが、 総理大臣官邸で、シベリアよりの
 
撤退の閣議決定に、署名していたのですが、 陸軍内部で、まったく、違う方向に走り出してしまい、
 
田中 義一陸軍大将では、この動きを止められなかったのでした。
 
 
 
 
 
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  逆に、 国民世論が、 尼港事件などの残虐事件を背景に、「加害者の共産党天誅の一撃を
 
加えるべし。」という、気運が高まり、 一部過激な国民からも、批判を受け、 陸軍からも、批判を受け、
 
政治家、 官僚からも、批判が集中して、 にっちもさっちもいかなくなり、 対応に苦慮する中、
 
陸軍省の大臣室で、胸を押さえて、 倒れ込んでしまうのでした。
 
 
 
【次回に続く。】