第680回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第679話 阿南 惟畿 【あなみ これちか】閣下の事。  2014年1月1日水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
 
         みなさん、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 
   昨年は、1日も休まず、月、月、火、水、木、金、金と、投稿出来まして、 なによりでした。 
 
   人間健康が第一でして、特に冬場は、風邪をひきまして、健康を害する人が多いのですが、
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
   海軍兵学校のある 江田島という所は、みかんが、たくさん取れまして、 このみかんを
 
   1日、3個、かならず食べるようにしますと、風邪にかからず、元気に過ごせます。
 
   神の思し召しと考え、 各自、実行していただきますと、 風邪にかからず、穏やかな日々が
 
   過ごせます。
 
 
イメージ 4
 
 
 
   実は、私も他人の受け売りで、この話は、 長寿であった、 ポン友の 源田 【源田 實 
 
   元 参議院議員 元空将 】 より、教わりまして、 何しろ、視力にも良いようで、彼は、60才
 
   でも、老眼ではありませんでした。
 
   私はどうかと言いますと、心筋梗塞に、糖尿病と、健康を害していたのですが、日常の食生活
 
   が大切なようです。
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
         今年も、 みなさんが、平和で、穏やかな暮らしが、続きますよう、神に祈っております。 
 
 
 
イメージ 5
 
 
 
        今年の初めの思い出話は、 私が昭和20年 航空総隊 総参謀であった頃、
 
      当時の鈴木内閣総理大臣に、頼まれ陸軍大臣の要職にあって、 終戦の工作に、
 
      表向きは大反対し、影ながら終戦に尽力し、泥を、一身にかぶって他界された、
 
 
 
イメージ 11
 
 
 
       阿南 惟畿 【あなみ これちか】 陸軍大将の若い頃のお話をさせていただきます。
 
 
 
イメージ 6
 
 
              
                  【阿南閣下が、心酔していた 乃木 希典  陸軍大将 】
 
 
 
        阿南閣下は、 本籍地は、大分県となっているのですが、 お父上のお仕事【役人】の
 
        関係で、色んな所を転々とされ、徳島県にいた時、 乃木閣下に、剣道の稽古を見て
 
        いただき、ずいぶんと、父上殿の前で、褒めていただいて、陸軍の軍人になるよう、
 
        父上殿の前で薦められたようです。
 
 
 
イメージ 7
 
 
 
        それ以後、 広島市の陸軍幼年学校、 陸軍士官学校と、進むのですが、天才肌
 
       ではなく、毎日、コツコツと、努力して行かれる、そんなまじめな人柄でした。
 
        毎日、毎日、続けていくというのは、自分に厳しくないと続かないことでありまして、
 
        随分、信の強い方であったようです。 
 
 
 
イメージ 10
 
  
        【 阿南 惟畿 あなみ これちか 陸軍大尉 陸士18期卒 陸大30期卒 大分県出身】
 
 
        これからお話しすることは、 阿南閣下が、まだ、陸軍省 参謀本部附、 陸軍大尉
 
        であった、大正9年 7月の暑い頃のお話です。
 
 
 
      
イメージ 8
  
 
                               【 陸軍省 】
                   
 
      山縣有朋侯爵と、上原 勇作 参謀総長樺太出兵工作の心労で、体調を崩していた、
 
      陸軍大臣、 田中 義一 陸軍大将に、阿南陸軍大尉が呼出を受けたのは、大正9年の
 
      7月初頭であったようです。
 
 
 
イメージ 12
 
 
 
                  【当時の陸軍大臣  田中 義一 陸軍大将 】
 
 
      命令というのは、 樺太にあった、 樺太庁という 官庁が当時は、あったのですが、
 
      そこに出向いて、 現地の宣撫工作【せんぶこうさく ー 事前に、現地で宣伝工作をする 】
 
      をするという隠密命令であったようです。 
 
 
 
 
イメージ 9
 
 
 
      つまり、 陸軍の児島中将が指揮する、札幌の歩兵25連隊と、旭川の歩兵26連隊が、
 
      樺太に上陸する前に、 現地に赴いて、尼港事件の惨劇の情報を現地で広め、ロシア人達
 
      や、現地人達に、ソビエト共産党の恐ろしさを宣伝し、 日本側に協力するよう、宣撫工作
 
      せよという、 そういう隠密命令であったのです。
 
      そして、阿南陸軍少佐は、 海路、横浜から、樺太豊原支庁に向かうことになったのでした。
 
 
 
【次回に続く。】