第691回 昭和の伝道師【 船中、戦後のパイロットの物語 】

第690話 陸軍の派閥の分裂の事。            2014年1月12日日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10
 
 
 
 
   江戸時代の長州藩奇兵隊【きへいたい】の隊長で、 倒幕の戦いに参加し、明治維新
 
原動力となり、長州藩の官吏、軍人の元締め的存在であった、山縣有朋侯爵に、意見できる人と
 
いうのは、 伊藤博文公だけだったようです。
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
        山縣有朋侯爵は、 明治初期にも、当時汚職事件が公となり、 その後始末を
 
 伊藤博文公が、もみ消していたようで、「 きょういち、おみゃーー、ぎょうさん金はもっとろうがーー。」
 
 と、山縣有朋侯爵に、ガミガミ言っていたそうで、 反面、山縣有朋侯爵がドブに落ちそうになったら、
 
 引き上げていたそうで、山縣有朋侯爵も、 伊藤博文公には、頭が上がらなかったようです。
 
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
       反面、山縣有朋侯爵は、 金を受け取って、仕事などの斡旋をして、そのお金で、
 
      趣味の庭園造りなどにつぎ込むとともに、系列の官吏、軍人、商売人の世話の為に
 
      随分お金を使っていたようです。
 
      入ってくる物が多ければ、使うのも多かったようです。
 
 
 
イメージ 11
 
 
 
      そして、自分を通さない、お話や、人事については、徹底的に、反対して、混ぜ繰り
 
      返していたようで、明治天皇も、ため息をついていたと言われているので、づいぶん
 
      難しい人だったようです。
 
 
 
 
イメージ 3
  
 
 
 
        山縣有朋侯爵の指示で、朝鮮銀行と、台湾銀行で、紙幣を無断で印刷して、
 
        中国の北京政府に貸し付けていた、そして、共益社という、組織を作って、利息を
 
        取って裏金を作っていたのですが、現在の価値で50兆円とも言われる、西原円借款
 
        の問題は、徐々に新聞記者などの取材で、 世の中に知られる問題となっていき、
 
        大きな反発が出たのです。
 
 
 
イメージ 4
 
 
 
    山縣有朋侯爵の系列の人は、文句は言えなかったのですが、 山縣有朋侯爵に、常日頃
 
    嫌がらせをされたり、 反目している人達は、これを機会に、老害山縣有朋侯爵を、放逐
 
    しようと動き出したのでした。
 
 
 
イメージ 5
  
 
 
 
      この西原円借款は、 前内閣総理大臣寺内正毅 陸軍大将が、朝鮮総督時代に
 
      山縣有朋侯爵の指示で、内密に行ったのが始まりだったのですが、 当事者は、
 
      前年、東京に流行した、流行病で死去していて、 真相は闇の中だったのです。
 
 
 
イメージ 6
 
 
 
       大蔵省のほうも、日本銀行は、大蔵省が管理して、インフレにならないように、
 
      紙幣の印刷、管理をしていたのですが、 朝鮮銀行台湾銀行は、朝鮮半島
 
       台湾が、 伊藤博文公が、暗殺されて以後、陸軍の国のようになってしまい、
 
       治外法権というか、 陸軍には手がつけられなかったようです。
 
 
 
イメージ 12
 
 
 
       伊藤博文公を暗殺した、安 重根が、 陸軍の特務機関に乗せられて、 利用されたの
 
       ではないかとする説は、 伊藤博文公が、暗殺されて以後、陸軍が朝鮮半島の利権を
 
       押さえてしまい、大蔵省も、なかなか手が出せなかった、そんな事情から出てきたのです。 
 
       そこで、紙幣の印刷を、日銀だけに限定すべきであるという、そういう大蔵省主導
 
       の政治の流れが出来ていくのですが、 これに、陸軍が反対していったのです。
 
 
 
イメージ 7
 
 
 
          当時の大蔵大臣は、高橋是清 大蔵大臣でしたが、 当時は陸軍の力が
 
         強大で、 強引に進めていく力は、高橋大蔵大臣には無かったのです。
 
 
 
イメージ 8
 
 
 
         これらの日銀法の改正案には、上原 勇作 参謀総長などが、反対し、 陸軍の
 
         利権を守ろうとしたのでした。
 
         内閣総理大臣も恐れぬ、 上原 勇作 陸軍大将には、若い20代、30代の
 
         青年将校には、頼もしく見えたようで、 上原大将が、 都城出身だったこともあり、
 
         九州出身の軍人が、周囲に集まり、 派閥を形成していったのです。
 
 
 
 
イメージ 9
 
 
 
           そして、 内閣と妥協して、政治を進めていこうという、そういう現実を見据えた
 
          軍政をしていこうという、 田中 義一 陸軍大臣を中心とする軍人の派閥に、
 
          大きく別れていったようです。
 
          長州出身の軍人、官僚が当時多かったのですが、山縣有朋侯爵が、80才前後
 
          の年齢と言う事もあり、 次を見越して、長州出身は、 同じ長州出身の田中 義一
 
           陸軍大将を、支持したようです。
 
          と、言うのは、 長州出身者が、幅をきかせていた当時、 九州の薩摩藩閥の
 
          上原 勇作 陸軍大将が、台頭すると、 長州藩の系列の官吏、軍人は、自分達の
 
          立場が、危うくなると、考えていたようです。
 
          そして、陸軍は大きく2つに分かれていき、 皇道派、 統帥派 という、派閥の
 
          原点が、この時期に出来ていったようです。
 
 
 
 
 
【次回に続く。】