第735回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第734話 原 敬 内閣総理大臣暗殺のその後の事。 2014年2月25日火曜日の投稿です。
大正10年11月3日から、9日の水曜日まで、 大雨が降ったり、暴風雨になったりで、
その後の世間の行く末を予感させるような、そんな天気が続きました。
特に、9日は、冷え込みが激しく、 海からの潮風が大変冷たく、 奈良盆地の寒さとは随分違った
のに、閉口したのを記憶しています。
大正10年11月10日の木曜日でしたか、 やっと天候が回復して、晴天となり、私達は、
南側練兵場に集められまして、校長先生から、 原 敬 内閣総理大臣がお亡くなりになったと、
お話を聞いたのです。
当時の政界では、予想もしないような、暗殺事件に、大きく揺れたのです。
原 敬、内閣総理大臣が、代表を務めていた、政友会 と言う政党、 昭和の戦後で言えば
自由民主党のような存在の政党ですが、 群雄割拠の状態で、 飛び抜けて、力を持った人
つまり、多くの資金力を持ち、子分をたくさんつれているような、大物がいなかったのです。
早い話は、 原 総理が、 取って代わられたらいけないので、 大物をどんどん新聞を使って、
排除していき、 党内をコントロールしていたのですが、 突然いなくなったので、まとまりが
つかなかったのです。
但し、政友会内部には、 内閣総理大臣の座を、手放したくない、つまり、又、陸軍の
軍人が、総理大臣になったりすると、自分達には、よろしくないと、共通していたようで
政友会を分裂させたり、 ごだごだを表面に出すのは良くないと、こう言う事であったの
ですが 、「 この人にすると、あの人の顔が立たず。」と、こんな具合で、なかなか話が
まとまらなかったのです。
当時の海軍としては、もう一度、公家の長老、 西園寺 公望 元内閣総理大臣に
再登板してもらってはどうかと、 そんな提案をして、 そうすると、誰の顔も立つし、
良い案と言う事になり、 政友会も、その案を支持し、西園寺 公望 元総理大臣に、
総理就任の話がいったようですが、 西園寺 公望 さんは、「 とんでもない、 とても
陸軍をシベリアから撤退させたり、 海軍の軍縮を進めたり、 そんな火中のクリを拾う
ような事は出来ない。」と、固辞されたようで、 「 代わりに、調整、指名はまろが、
引き受ける。」と、こうなったようです。
西園寺 公望 元内閣総理大臣は、 政友会の当時の派閥の代表者数人に、
誰の顔も汚さず、受け入れてもらえる人を思いついて、 政友会内を回り、 口説いて
調整してまわったのでした。
陸軍嫌いの、西園寺 公望 元内閣総理大臣は、 陸軍は外して、 ほぼ、調整が
告げたのでした。
当時、来月の12月には、国会を開き、 翌年の早い時期に、大正11年度予算を決めて、
通さないといけないという大事な時期で、 12月じゅうに、根回しをして、ある程度、予算の骨格を
決めておかないといけないという、そういう時期で、 なおかつ、 三菱財閥の娘婿の加藤 高明
衆議院議員の率いる野党 憲政会 にも受け入れられて、 与党の政友会にも受け入れられる
人物、そういう意味合いから、実務家ながら、 与党に政治基盤を持たない、横浜正金銀行の
出身者の名を、西園寺公は、推挙したのでした。
その人の名前を聞いた、 山本権兵衛 海軍大将は、 「 無言の内に、数分たち、政権が
続いていけるのか、与党の政友会を、動かしていけるのかーーー。」とも質問をしたようです。
すると、西園寺公は、「 山本閣下 、 あんたに一肌脱いでいただいて、支えていただくと、
大丈夫です。 よろしくお願いします。 陸軍は、どうも苦手で、山縣侯爵も引退されましたし、
山本閣下から、陸軍の調整を御願いしたいと、本日、御願いにまかりこしたのです。」と、言われ、
ため息をついたのでした。
山本権兵衛 海軍大将の、党内基盤の弱い、実務家の総理大臣就任には、心配事が多いわけ
ですが 、やがてその心配事は、現実のこととなっていくのでした。
【次回に続く。】