第767回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第766話  海軍兵学校 呉鎮守府 見学の事。   2014年3月29日 土曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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    大正10年11月26日土曜日の午前中、私達、海軍兵学校 第52期の生徒は、呉沖に停泊
 
する、戦艦 扶桑 【 ふそう 】の見学を済ませまして、一路、ランチの方向を呉に向けて転進し、
 
再度 呉【くれ】に上陸したのでした。
 
  上陸しますと、 整列点呼が行われ、 おのおの番号をさけんで、人数を確認して、背筋を
 
伸ばして、整列したのでありました。  
 
  ここで案内の特務少尉殿について、呉鎮守府を見学するのですが、時刻は正午近く、ずいぶん
 
空腹であったのです。
 
  特務少尉殿が、「 昼の糧食の補給は、水交社 【すいこうしゃ】で、とることになっておるが、
 
ただいま、 兵校【 海軍兵学校の略称 】の別の生徒が、糧食の補給を受けておって、混み合って
 
いるので、貴様達には、先に呉の海軍工廠 【かいぐんこうしょう】を見学してもらう。」と、 こう説明が
 
あったのでした。
 
   昼ご飯も、成績の良い、ハンモック番号順で、 源田達は、先に昼食とこういうわけでして、
 
私達の後の番号は、 後回しとこうなったのです。
 
  「  はぁーーー、腹が空いた。」と、 空腹を辛抱しながら、特務少尉殿に案内されまして、
 
  私達は、軍艦建造ドックがある呉の海軍工廠の方に、ぞろぞろと長蛇の列で、歩いて行った
 
のです。
 
 
 
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     戦後の現在の広島県 呉市には、 東洋最大という、大きな造船所がありまして、
 
    ここを、呉海軍工廠 【 くれ かいぐんこうしょう 】 と呼びまして、 写真撮影は禁止され
 
    どのような軍艦を建造しているかも、軍事機密で、 自宅に戻り、家の人にも話すのも
 
    末端の作業員も禁止されていたのです。
 
    そういう情報統制は、呉市内の市民にも、徹底して行われ、 「 今、何を造っているのか。」
 
    とか、 そのような言葉は、禁句であったのです。
 
    又、現在はそのような事は無いのですが、 東側の呉海軍工廠が見渡される山には、
 
    登山が禁止され、 厳しい監視の対象でありました。
 
 
 
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     日本海軍は、 横須賀、 呉  佐世保 と、 このような大きな造船所を整備しまして、
 
    いままで、イギリスに法外なお金を支払って軍艦を買っていたのですが、我が国で、軍艦を
 
    建造していく基盤整備を行い、 戦艦 大和も、 ここの呉の海軍工廠で建造されます。
 
    私達は、南側に歩いて行きまして、 これらの設備を見学していったのです。
 
 
    
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   みなさんは、よくわからないかも知れませんが、 造船所に行って、 ドックの下におりまして、
 
   1番下から上を見上げますと、 すごい大きな物でして、 普段は水面に隠れて、見えない
 
   ですが、 船という物は、 小さく見えましても、 ドックの中に入れて、水を抜くと、とても
 
   大きな物なのです。
 
   「 どんどんどん、 かんかんかん。」と、 大きな鉄を叩く音がしまして、「 ウィーーーーン。」
 
   と、機械が回る音がして、 鉄の工場だったわけです。
 
 
 
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   私は、「 はぁーーー、船の舵ちゅーもんは、大きなもんやなぁーー。」と、見上げますと、
 
   後任の井上 武男生徒が、「 うちの家の屋根より、おおきいだっぺや。」と、 二人で
 
   ずいぶん感心して見上げたのを覚えています。
 
 
【次回に続く。】