第767回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正10年11月26日土曜日の午前中、私達、海軍兵学校 第52期の生徒は、呉沖に停泊
する、戦艦 扶桑 【 ふそう 】の見学を済ませまして、一路、ランチの方向を呉に向けて転進し、
再度 呉【くれ】に上陸したのでした。
上陸しますと、 整列点呼が行われ、 おのおの番号をさけんで、人数を確認して、背筋を
伸ばして、整列したのでありました。
ここで案内の特務少尉殿について、呉鎮守府を見学するのですが、時刻は正午近く、ずいぶん
空腹であったのです。
特務少尉殿が、「 昼の糧食の補給は、水交社 【すいこうしゃ】で、とることになっておるが、
ただいま、 兵校【 海軍兵学校の略称 】の別の生徒が、糧食の補給を受けておって、混み合って
いるので、貴様達には、先に呉の海軍工廠 【かいぐんこうしょう】を見学してもらう。」と、 こう説明が
あったのでした。
昼ご飯も、成績の良い、ハンモック番号順で、 源田達は、先に昼食とこういうわけでして、
私達の後の番号は、 後回しとこうなったのです。
「 はぁーーー、腹が空いた。」と、 空腹を辛抱しながら、特務少尉殿に案内されまして、
私達は、軍艦建造ドックがある呉の海軍工廠の方に、ぞろぞろと長蛇の列で、歩いて行った
のです。
ここを、呉海軍工廠 【 くれ かいぐんこうしょう 】 と呼びまして、 写真撮影は禁止され
どのような軍艦を建造しているかも、軍事機密で、 自宅に戻り、家の人にも話すのも
末端の作業員も禁止されていたのです。
そういう情報統制は、呉市内の市民にも、徹底して行われ、 「 今、何を造っているのか。」
とか、 そのような言葉は、禁句であったのです。
又、現在はそのような事は無いのですが、 東側の呉海軍工廠が見渡される山には、
登山が禁止され、 厳しい監視の対象でありました。
いままで、イギリスに法外なお金を支払って軍艦を買っていたのですが、我が国で、軍艦を
建造していく基盤整備を行い、 戦艦 大和も、 ここの呉の海軍工廠で建造されます。
私達は、南側に歩いて行きまして、 これらの設備を見学していったのです。
みなさんは、よくわからないかも知れませんが、 造船所に行って、 ドックの下におりまして、
1番下から上を見上げますと、 すごい大きな物でして、 普段は水面に隠れて、見えない
ですが、 船という物は、 小さく見えましても、 ドックの中に入れて、水を抜くと、とても
大きな物なのです。
「 どんどんどん、 かんかんかん。」と、 大きな鉄を叩く音がしまして、「 ウィーーーーン。」
と、機械が回る音がして、 鉄の工場だったわけです。
私は、「 はぁーーー、船の舵ちゅーもんは、大きなもんやなぁーー。」と、見上げますと、
後任の井上 武男生徒が、「 うちの家の屋根より、おおきいだっぺや。」と、 二人で
ずいぶん感心して見上げたのを覚えています。
【次回に続く。】