第768回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
以前紹介したように、 呉の要塞地帯は、大正時代の当時、写真撮影は、原則禁止に
なっていて、 スパイ防止の為、厳しい監視が行われていたのです。
上の写真の7番 が、当時の呉 海軍工廠で、 戦後の現在も民間の造船所として
活動しています。
軍艦などを建造する、 呉海軍工廠には、多くの人が作業していたのですが、
多くの労災事故が発生し、 特に雨の日は、鉄の上は、すべりやすくなり、 多くの
人が、転落したり、 鉄の板の下敷きとなって、お亡くなりになったのです。
当時の人達は、「 御国の為に亡くなられた。」という言葉ですまされてしまい、
なかなか、作業環境が、改善されなかったのです。
どうして、そういう事になるかというと、 安全が軽視され、 戦後の現在では
とても考えられないような、仮設設備であったのです。
昭和の戦後の現在ですと、 単管で、足場を組み立てて、道板をかけて、番線で
結束して、 転落防止ネットをかけてと、そんな手順ですが、当時は、そのような物は
ほとんど、されなかったのです。
つまり、上の写真の様に、マルタを組み合わせて、 その上を歩いていたのです。
そういうわけで、 随分ひどい労働環境であったわけです。
呉海軍工廠の、建造部門の南側には、 砲身工場がありまして、
私達は、ぞろぞろと後について、 見学して歩いたのです。
砲身工場は、当時日本で1番の工場の規模で、 私達は、興味をもって
見学いたしました。
軍艦の砲身の鉄というのは、 そのあたりの鉄とは違いまして、 特殊な
素材であって、 炭素の量を調整して、 ずいぶん頑丈な鉄であったようです。
雰囲気は、大きな、大きな、鉄工所というそんな感じでして、 多くの人か、忙しそうに
仕事をされていました。
実は、このような海軍工廠を管理するのも、海軍士官のつとめでありまして、
そのような説明を受けて、 こんな大きな工場と、 数千人の作業員を統率して
いけるのかと、 不安を当時感じました。
大正10年11月26日 土曜日の昼、 私達は、呉海軍工廠を見学したのですが、
翌月の12月に、 軍縮条約の関係で、 これらの工場の作業員が、大幅整理の
対象となり、多くの人が、職を失っていくのです。
そして、日本の経済は、奈落の底に落ちて行くのです。
順を追って、 また、1つ1つ紹介して行きたいと思います。
【次回に続く。】