第768回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第767話 海軍兵学校 呉海軍工廠 見学の事。   2014年3月30日 日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
              
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          以前紹介したように、 呉の要塞地帯は、大正時代の当時、写真撮影は、原則禁止に
 
         なっていて、 スパイ防止の為、厳しい監視が行われていたのです。
        
 
         上の写真の7番 が、当時の呉 海軍工廠で、 戦後の現在も民間の造船所として
 
         活動しています。
 
         軍艦などを建造する、 呉海軍工廠には、多くの人が作業していたのですが、
 
 
 
 
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         多くの労災事故が発生し、 特に雨の日は、鉄の上は、すべりやすくなり、 多くの
 
         人が、転落したり、 鉄の板の下敷きとなって、お亡くなりになったのです。
 
         当時の人達は、「 御国の為に亡くなられた。」という言葉ですまされてしまい、
 
         なかなか、作業環境が、改善されなかったのです。 
 
 
 
 
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           どうして、そういう事になるかというと、 安全が軽視され、 戦後の現在では
 
           とても考えられないような、仮設設備であったのです。
 
 
 
 
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        昭和の戦後の現在ですと、 単管で、足場を組み立てて、道板をかけて、番線で
 
        結束して、 転落防止ネットをかけてと、そんな手順ですが、当時は、そのような物は
 
        ほとんど、されなかったのです。
 
        つまり、上の写真の様に、マルタを組み合わせて、 その上を歩いていたのです。
 
 
 
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             そういうわけで、 随分ひどい労働環境であったわけです。
 
 
 
           呉海軍工廠の、建造部門の南側には、 砲身工場がありまして、
 
         私達は、ぞろぞろと後について、 見学して歩いたのです。
 
 
 
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           砲身工場は、当時日本で1番の工場の規模で、 私達は、興味をもって
 
           見学いたしました。
 
 
 
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            軍艦の砲身の鉄というのは、 そのあたりの鉄とは違いまして、 特殊な
 
            素材であって、 炭素の量を調整して、 ずいぶん頑丈な鉄であったようです。
 
 
 
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         雰囲気は、大きな、大きな、鉄工所というそんな感じでして、 多くの人か、忙しそうに
 
         仕事をされていました。
 
         実は、このような海軍工廠を管理するのも、海軍士官のつとめでありまして、
 
         そのような説明を受けて、 こんな大きな工場と、 数千人の作業員を統率して
 
         いけるのかと、 不安を当時感じました。
 
 
 
 
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      大正10年11月26日 土曜日の昼、 私達は、呉海軍工廠を見学したのですが、
 
      翌月の12月に、 軍縮条約の関係で、 これらの工場の作業員が、大幅整理の
 
      対象となり、多くの人が、職を失っていくのです。
 
      そして、日本の経済は、奈落の底に落ちて行くのです。
 
      軍縮条約という、時代の大きな津波が、私達に襲いかかろうとしていたのでした。
 
      順を追って、 また、1つ1つ紹介して行きたいと思います。 
 
 
 
 
【次回に続く。】