第786回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第785話 海軍兵学校 水交社のカリーの事。 2014年4月17日 木曜日の投稿です。
大正10年12月3日の土曜日の正午、 私達は、 呉鎮守府 参謀長の正木 義太
閣下のお話を、聞いた後、 隊列を組みまして、 呉鎮守府の東側の入船山に向かった
のです。
以前紹介しましたが、 戦後の現在、入船山公園の跡地に、戦前は、水交社という、
海軍の退役予備役軍人が運営する、 ホテルと物品販売所を兼ね備えた建物が
あったのは、以前紹介したとおりです。
少し急勾配の道を私達は、 登っていると、 先に1100時頃 昼の糧食の補給を
うけた、 ハンモックナンバーの若い分隊の生徒が、下ってくるところだったのです。
私は、 最近覚えた手信号で、 「 ナンノ ショクジデアルカ。」 と、手で信号を
送ると、 同郷の小池 伊逸生徒が、 スプーンで、食べるまねをするので、
私と一緒に坂道を歩いている連中は、「 今日も土曜日なので、カリーやな。」と
察しがついたわけです。
土曜日は、 大正時代の海軍では、 カリーであったのです。
私達は、 水交社につきますと、 整列して、 監事殿が着席された後、 着席して、
昼の食事を取ったわけですが、 食べ盛りの為、あつという間に食べてしまいまして、
5分も立たない間に、 全部食べてしまったのです。
以前紹介したように、戦後のカレーライスのように、にんじん、ジャガイモ、肉など、入って
いない汁かけ御飯風の物ですので、 食べるのも速いのですが、 当日は、じやがいもを
すりつぶして、 パン粉とむぎ粉をまぶして、油で揚げた物が、添えてありまして、 なかなか
美味しかったのですが、 奈良の葛城の自宅のように、美味しいから、おかわりなんて
ことは、 海軍兵学校では、許されなかったのでした。
私が、「 もう、なくなってもうた。」と、残念そうに言うと、 となりの福元 義則生徒が、
「ほんまでごあす、おいどん、 腹が減って、 困ったことでごあんどーーーーー。」と、
ぐちをこぼしていますと、 配膳の担当者が、 食後の、コーヒーと御菓子を持ってきてく
れまして、私達は随分と、喜んだのです。
「 さすがは、呉の水交社やのーーー、えーーっ。」と、私が嬉しそうにしますと、
左となりの、井上 武男生徒が、「 ほんとだっぺっーーーー♪ 。」と、
周囲の生徒達も、 揚げ菓子と温かいコヒーに舌鼓をうったのです。
しばらくして、私達は、水交社の建物を出まして、外の庭に整列したのですが
いよいよ、 娑婆 【 しゃば 海軍兵学校の外の一般社会の事】に
繰り出しまして、 自由行動時間で、 私は楽しみにしていたのです。
「 全員 注目、 あーーこれより、服装検査を行う、 不合格の分隊は、 15
分後に、再検査とする。 」と言って、 外出前の服装検査が始まったのです。
海軍兵学校は、海軍士官としての身だしなみのことを、ずいぶんと、うるさく
言う所がありまして、 自由行動時間前に、私達は、 ズボンを腰の上にあげて
袖、肩などを払いまして、 不動の姿勢で整列したのでありました。
【次回に続く。】