第789回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第788話 海軍兵学校 呉軍港の物価の事。     2014年4月20日日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
      私達は、家の庭で、鎖につながれたまま、退屈な日々を過ごしていた、飼い犬が
 
     鎖を外され、 とき離れたような感じに、笑顔を浮かべ、 呉の市内を、2時間程度
 
     楽しんだのです。
 
     軍隊の中の生活は、個人の自由などないような物で、団体生活そのものなのですが、
 
     世間一般と違うことは、 そうですね、ほしい時に、水も満足に飲めないことでしょうか、
 
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
                              【 戦前の呉駅 】 
 
 
    戦後の現在ですと、 アイスを食べたいと思えば、食べれますし、 ビールが飲みたいと
 
    思えば、冷蔵庫を開けますと、飲めるわけですが、 残念な事に、 軍隊の中では、
 
    そのような事が、許されないし、出来ないわけです。
 
    私は、呉の中の商店街の八百屋や、米屋などの価格を見て歩いたのですが、 当時、
 
    はがきが20銭でした。
 
 
イメージ 5
 
 
 
    ところが米はどうかというと、 戦後の現在で、 10キロの白米が、3500円としますと、
 
    当時は、6倍の価格の21000円程度、していたのです。
 
    味噌、 野菜、漬け物、酒なども、同様でありまして、 随分と物価が高騰し、 庶民は
 
    ずいぶんと、苦しんでいたのです。
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
      どうしてそのような事になるかと言いますと、シベリア出兵で、 食料物資を陸軍が
 
      舞鶴と小樽に、集めようと、桁外れの単価で、商売人、財閥に注文を出すわけです。
 
      すると、 そちらに米を持っていくと、値段が数倍高いわけでして、 全国の米、味噌、
 
       その他の品物が、 買いあさられ、 どんどん、 財閥の海運会社の輸送船で、
 
       舞鶴や、小樽の倉庫に持って行かれるわけです。
 
       又、必要も無いのに、投機目的で、 買い集める物も出てきまして、 品物の代金が
 
       6倍近く、跳ね上がっていたのが、当時の現状でありました。
 
 
イメージ 3
 
 
 
     これらのシベリア出兵の波に上手に乗った人達は、 地方の物資をシベリアに送って、
 
     陸軍省からどんどん、お金を稼いで、 大金持ちになっていくのですが、 これを当時、
 
     戦争成金【せんそうなりきん】と、呼んでおりました。
 
      広島県、 呉市でも、 将校はなんとか暮らしていけたようですが、下士官クラスの
 
      家庭が、暮らしが給金だけでは成り立たなくなり、 呉鎮守府内でも、大きな問題に
 
      なっていきます。
 
 
 
イメージ 4
 
  
 
 【 水兵、下士官の給金を上げるよう、海軍省とかけあった、 正木 義太呉鎮守府参謀長 】
 
 
 
 
     そういうわけで、 私が呉の町の食品を見て歩くと、 ずいぶんとお値段が高かったのです。
 
     ちょうど、 私達が呉の町に出歩いていた時期に、 呉鎮守府の参謀長 正木 義太
 
     海軍少将殿が、 下士官、 水兵の給料の増額を求めて、 海軍省に陳情されていたようで、
 
     「この軍縮の予算不足の最中に、何事か。」と、 すったもんだしたようですが、
 
     呉の海軍の末端の窮状を、 書類にして、 あちらこちらに、陳情して歩いたそうです。 
 
     シベリアから、撤退せずに、 ずうっと、 駐留していた場合、 この状態が続いていた
 
     わけで、 シベリアから撤退したほうが、 庶民のためには良かったのかも知れません。
 
 
     私達は、 あっという間に自由時間が終了し、 海軍兵学校のある江田島に戻ったのです。
 
 
【次回に続く。】