第795回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第794話 海軍兵学校 運用考査の事。        2014年4月26日 土曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
     大正10年12月9日の金曜日、雨の中、 赤痢の重症患者となった、となりの第12分隊
 
   の江口 英二生徒が、呉の海軍病院に搬送された翌日の10日の土曜日、私達に朝方、
 
   教頭の丹生 猛彦 海軍大佐殿より、運用考査の命令が発令されたのでありました。
 
 
 
 
 
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        運用考査とは何かと言いますと、 大正時代の私達が海軍兵学校に在籍していた
 
       当時、戦後の試験、又は、テストの事を、 【考査】と、呼んでいたのです。
 
       私は、いよいよ、胃の痛くなることが、始まると、 ため息をついて、 吐いた息が、
 
       早朝の寒さで、白く見えたのを記憶しています。
 
       以前紹介しましたが、 毎週土曜日は、 海軍兵学校は、大掃除の日なのですが、
 
       私達3号生徒、第52期の生徒は、 ここ3週間程度、 戦艦の体験航海や、呉の鎮守府
 
       見学会などがあって、掃除をろくろくせずに、兵学校の西側の護岸に整列して、点呼を
 
       取り、不動の姿勢で、考査の係官をお待ち申し上げたのです。
 
 
 
 
 
 
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   「 ぜんたーーーーぃ きょうつけぇーーぃ。頭ーー右。」と、 号令がかかりまして、 
 
   私達は、 監事の大尉殿の方を見つめたのです。
 
   当時、記憶によりますと、 古田中 博 海軍大尉殿他、 監事附の数名で、運用考査が
 
   始まったのです。
 
   古田中 博 海軍大尉殿は、 海軍兵学校 36期卒 であったと思います。
 
       海軍兵学校 36期のクラスは、 有名な、南雲 忠一 海軍中将殿などと、同じクラスの
 
   人で、東京都出身で、 当時海軍兵学校では、体操などの指導に当たられておりました。
 
   その後、 海軍中佐、 大佐時代は、海軍省の報道部で、 海軍の宣伝国策映画の制作にも
 
   係わられていました。
 
   運用考査とはなにの試験かと言いますと、 以前紹介した、ランチ【短艇】の操作や、主に
 
   綱やロープの扱い方などを、ちゃんと1人で出来るか、出来ないか、 確認する考査でした。
 
 
 
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     海軍の勉強というのは、 わかりやすく言いますと、 実際に体を動かして出来ないと、
 
     いくら頭が良くて、 英語の単語を覚えて、 問題が解けても、 しゃべれないと、意味が
 
     無いわけでして、  実際、本人にさせてみて、 間違ったり、 出来なかったりすると、
 
     減点になるわけです。
 
     お恥ずかしいお話ですが、私はハンモックナンバーが、当時226番で、全体が約300人
 
     程度ですので、 末尾に近かったのです。
 
     「  ただいま、0730時である、 これより考査を開始する。」と、 号令がかかりまして、
 
     考査が始まったのです。
 
 
【次回に続く。】