第904回 連合艦隊 首席参謀 黒島亀人海軍少将の古写真を考察する。

みなさん、こんばんは、模型公園です。2014年5月6日 火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
              今日の模型公園の家の近くは晴天で、とっても良いお天気です。
 
 
              日本の今日は、連休最終日で、道路はずいぶん混雑しているようです。
 
 
              みなさん、眠くなったら、急がず、休憩しながら帰宅してください。
 
 
                         今日のおままごとの紹介です。
 
 
 
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                    今日は、エビ入りコロッケと、広島県のボストンレタス。
 
 
 
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                         今日は、 太刀魚のお刺身。
 
 
 
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                僕の大好きな、いくらとネギトロをかけて、楽しみます。
 
 
 
 
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            じゃーーん、今日の太刀魚の刺身定食の出来上がりです。♪
 
 
 
 
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  最近、この太刀魚のお刺身が、白身で美味しい事に気がついて、 そんなに味は
 
  濃いくなくて、薄いのですが、ーーーそう、キスの刺身の味に近いですが、
 
 
 
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           なかなか美味しいですね、   白身では、 カレイ、ヒラメ、キス、太刀魚
 
 
           と、特にヒラメのヒラヒラの部分、縁側の刺身はコリコリして美味しいですね。
 
 
 
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               みなさんも、機会があったら、食べて見てください。
 
 
 
 
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           このいくらと、ネギトロを一緒にいただくと、美味しいですね、
 
 
 
 
 
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              こうして、太刀魚の刺身とあえて、食べて見ました、すこし醤油をたらすと
 
              美味しいですね。
 
 
 
 
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                        このエビのコロッケも美味しかったです。
 
 
 
 
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          今日は、原価が500円程度  作業時間15分程度の素人料理の紹介でした。
 
 
 
 
 
 
                        今日の模型のお話です。
 
 
 
 
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             日本海航空母艦 蒼龍 №11  2014年5月6日火曜日完成就役。
 
 
 
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空母蒼龍には、江草少佐という、 航空統制指揮の名人が飛行隊長で、赴任していて
 
 
その、空の上での指揮ぶりを、赤城の通信室で、 南雲長官と、草鹿参謀長と無線
 
で聞いていた、2人は、江草少佐の指揮ぶりには感心することしきりであったようです。
 
江草さんというのは、広島県福山市新市町の出身の方ですが、口ひげが、ピィーーン
 
と、伸びいて、 トレードマークでもありました。
 
 
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映画、ミッドウェイで、間違った紹介で、 淵田中佐が病気で入院し、 友永大尉が
 
総隊長を源田航空参謀の推薦で、交替したことになっていますが、実際は違っていて
 
大きな間違いなのです。
 
そういうわけで、多くの現在の人々は誤解されたままになっているのが現状です。
 
第2航空戦隊の旗艦は、長い間、この蒼龍でした。
                  
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資料の研究では、 淵田中佐の後任には、 空母蒼龍の飛行隊長 江草少佐が
 
推薦され、 江草少佐が、総隊長になり、 次席指揮官には、空母赤城の村田
 
少佐が、選ばれていたのです。
 
      
 
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 ベテラン搭乗員は、 空母出現に備えて、雷装、鉄鋼爆弾装備で待機となり、
 
通常、2派目の攻撃にあたる、 友永大尉の第二陣が、ミッドウェイ島を爆撃しに
 
飛びたったようです。
 
 
 
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 映画とういうのは、 省略したり、 いろんなシーンが創作してあるので、注意が
 
 必要です。
 
 
 
 
 
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        今日は、2週間かかって、完成した蒼龍のお話でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
        模型公園の所有する古写真を楽しむコーナーです。
 
 
 
 
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今日は、長い間 広島県呉市の民家に眠っていた、大正6年の古写真の紹介です。
 
 
 
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  海軍兵学校 第44期は、入学が100名 卒業者が95名で、 この写真帳も、
 
 おそらく、120冊程度しか、作られていないのではと、推測します。
 
長い間の伝来で、 戦災で焼失したり、 人知れず、ゴミとなったりで、そう数が
 
ないと思います。
 
 
 
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     大正6年といいますと、1917年で、97年前となります。
 
今日紹介した、第2航空戦隊 旗艦  空母 蒼龍の艦長であられた、柳本柳作

海軍大佐殿も、44期卒で、 この中に紹介されています。
 
 
 
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 下の段、真ん中です。 柳本さんは、家が貧しく、受験費用がなかったので、
 
 学校の教員になり、 自分でコツコツ貯金して、海軍兵学校に、入学したという
 
 苦労人でした。  そういうわけで、全体の中では、年下の生徒と一緒に、外聞
 
 すてて、恥を忍んで、年下の生徒と一緒に頑張られたようです。
 
 
 
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大佐時代の顔写真がよく紹介されていますが、この当時は、23才頃の写真で、
 
少し、ぽっちゃりしています。
 
威風、堂々とした風格で、 太平洋戦争で戦死しなければ、海軍中将くらいには
 
なれていた、 そんなよい評判の軍人でした。
 
 
 
 
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連合艦隊 首席 参謀 黒島 亀人海軍大佐 後の、海軍少将も、44期卒です。
 
黒島さんは、呉の西の吉浦の生まれで、3才の時、お父さんがロシアに行って死亡し、
 
お母さんは、 里に帰ってしまい、 3才の時、 黒島の家に養子に出され、日中、
 
黒島の家の石屋の仕事をして、夜は夜学に行くという、そんな暮らしで、20才の時に
 
やっと、海軍兵学校に合格したという、苦労人でした。
 
 
 
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 黒島さんは、戦後の小説家、評論家、海軍関係者から批判を受けることが
 
 多いのですが、 弁護するわけではないですが、 ずいぶんと立派な人でありま

 した。
 
 
 
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 戦後、 海軍関係者は、公職追放となり、給料も無く、恩給もなく、 悲惨な生活

が始まり、多くの家庭が崩壊したり、 井上成美大将のように、 娘の葬儀の棺桶も

用意できない、そんな貧乏に、海軍関係者全体が落ちていきます。
 
 
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   戦死された、山本五十六元帥宅も、いままでもらっていた、年金、恩給が
 
 国から支払われなくなり、子供を抱えて、礼子夫人は途方に暮れていたのです。
 
 
 
 
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  黒島さんは、戦後の混乱期、物資不足で、みんな自分の事しか考える余裕が
 
  無いときに、 白樺社という会社を作って、 資金を作り、 山本家の生活費を
 
  子供が独り立ちするまで、 礼子夫人に、現金、生活物資をずっと支援していた
 
  のです。
 
 
 
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 あんまり知られていないことですが、 なかなか出来ない事で、勉強してみますと
 
 知られていない一面を知りました。
 
 黙して語らず、 そういう人であったようです。
 
  立派な行動であったと、僕は尊敬しています。
 
 
  それではみなさん、良い火曜日の夜をお過ごしください。