第820回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第819話  海軍少将宅の3ヶ月周期演習生活の事。 


                     2014年5月21日水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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      【  海軍関係者で賑わう、 小用の船着き場の当時の古写真  】
 
 
 
 私は小用の船着き場で源田と正木生徒の話を静かに聞いていたのでした。
 
一緒にいた 雀部 利三郎【ささぺ りさぶろう】生徒【 海兵51期卒 岡山県出身
 
後の第1航空艦隊 航海参謀 海軍大佐 】が源田が17才で、海軍兵学校に合格
 
したと聞いて、「 わしは、 貴様のように17才で合格するとは初めて聞いた、末は、
 
海軍少将くらいには、出世しそうなやつだ。」と、先輩が持ち上げて言うので、源田

は嬉しそうに顔をしておりました。  

続けて、 雀部生徒が、「 正木生徒、貴様の家は父君が海軍少将であるから、随分

豪勢な正月であろうな。」と、こんな話をしたのですが、正木 生虎 生徒は、恥ずか

しそうにして、「 実は、呉の鎮守府の官舎での暮らしは、大変なのであります。

父が、3ヶ月演習をするので、それに休暇になると、父を訪ねて父の友人が
 
宿泊しに来たりするし、 その友人というのが、盆休みの時は、齋藤 海軍中将が
 
おこしになって、 父と碁をされたりするので、 子供の頃は、おじさん、おじさんと、

遠慮なく声をかけていたのでありますが、俺は、今では海軍兵学校の生徒、 おじ

さんは、海軍中将、 なれなれしく話をするわけにも行かずーーーー。」と、 話して

いますと、船が着き、 私達は押すな、押すなでやっと船に乗れたのでありました。
 
船の中は、1号生徒、2号生徒、3号生徒、ごっちゃまぜの、押しくらまんじゅう状態
 
であったのです。
 
 
  
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船は、小用の港を出港し、一路、呉の西側の海岸の河原石港【現在の川原石付近】
 
に向かって動き出したのでした。
 
もう一人そばにいた、 天谷 孝久 生徒 【 海兵第51期卒 後の空母飛龍飛行長 
 
茨城県 出身 】が、「 話は元に戻って、3ヶ月演習とは 正木生徒、何をするん
 
だっぺ。」と、聞くと、 正木 生虎 生徒が、「  我が家の正木家の3ヶ月演習とは、
 
こうだ、 父の海軍少将の給金の内、 1ヶ月は、母が、その給金分の中から暮らし

に使う。
 
そして、次の月は、父が戦死したと想定して、遺族年金分、つまり、給金の半分以下
 
で暮らすんだ。」 と、こんな話をされるので、私達は、「はぁーーーっ。」と、源田達と
 
一緒に初めて聞く海軍少将のお宅の家計のお話をお伺いしたのです。
 
 
 
  
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   【  当時の呉鎮守府 参謀長  正木 義太 海軍少将 生虎生徒の父 】
 
 
 
雀部生徒が、 「 おい大変だな、 給料の半分以下で生活とはーー。 3ヶ月目は
 
貴様、いったいどうなるのか。 」と、 正木 生虎生徒に、聞くと、「 3ヶ月目の演習

が大変なのであります。」と、しばらく時間をとって、外の瀬戸内海の風景を見つめな

がら、「 3ヶ月目の演習と言うのはーーー。」
 
 
 
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 父が予備役になったことを想定し、 予備役の恩給での生活を想定して、海軍

少将の給金の3分の1で生活するわけであります。」と、こう言うと、天谷生徒が、 

「 大変ダッペ、母上殿は。」と、言うと、 「 じつは、まだまだ大変で、そうして、少し

でも給金が貯まると、父は、「 そのお金は、天皇陛下の物である。」と言って、母の

タンスから全部持っていって、 戦争孤児義援金やらなにやら寄付してしまうので、

我が家は、寄付の感謝状はたくさんあるのだが、 お金は無いのだ、兄弟も多いの

で、 自分だけの部屋もないし、 みんな、弟と、横に布団を敷いて数珠つなぎよ。」

と、 こんなお話をしていただいたのです。
 
そんなお話を聞いていると、 呉軍港の西隣の河原石港に、私達を乗せた
 
連絡船は、接岸したのです。
 
      
 
 
【次回に続く。】