第823回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第822話 海軍兵学校 神風攻撃隊の由来の事。 2014年5月24日土曜日の投稿です。
日頃、年下の生徒の中で勉強したり、すごしていますと、浪人して入学した人しかわからない事
なのですが、 ずいぶん惨めというか、 我慢して周囲と会話していかないと、いけないわけです。
そんな我慢の生活の中で、同じ年齢の人物と久々に話をしますと、 ついつい会話がはずむわけ
です。
同席した、 海軍中尉殿も、言葉が少なかったのですが、この同じ年の明治35年生まれの
河野 栄男水兵 と、淵田3号生徒は、良く話をするなと、こんな感じの無言の表情をされていて、
私が、河野 栄男水兵に、「 貴様、なんで海軍に志願したんかいな。」と、問いますと、彼の
「我も、一旗あげん。」と海軍志願したという話を私達の前でするものですから、 私はその
話を聞いて、「 はぁーーー、たいしたもんやな。」と、 つぶやくと、小池君が、 「文永の役
の切り込みーーー、どないなことですねん。」と聞くので、 私は、4人の前で、父親に
子供の頃、教えてもらった、 竹崎季長絵巻物の古典のお話をしたのでした。
ここでも、父のやぞうに、幼少時に指導を受けた古典が役に立ったのでありました。
であったのです。
【 河野通信公 奉納 紺糸威大鎧 国宝 】
ここは、海の神様のお社として、有名な場所で、 ここに河野通信公の鎧が奉納され
参拝され、 出撃して行ったという、海の神様として有名な神社なのです。
これを、文永の役【ぶんえいのえき】と呼びますが、 日本の武士は、 鉄はうと呼ばれる
火薬玉や、 毒を塗った、弓矢、 集団で襲いかかってくる敵の戦法などで、日中苦戦
し、大きな被害と、多数の戦死者を出して、海岸線で敗北し、撤退するのです。
軍船に、 夜襲をかけたのです。
そして、 小舟から、 敵の軍船に乗り移り、 一気に斬りかかり、大暴れして、敵船に
火を放ち、 大きな被害を与え、敵に痛打を与えたのです。 結果、 敵は、 船で
海岸線から距離をとるようになり、 陸地と、海上とで、膠着状態になっていったのです。
河野 通有 公 肖像画 】
鎌倉武士の竹崎季長という武士が、 河野水軍の本陣を訪れ、夜襲の最中、
支那人の石弓を肩に受け負傷して、養生している河野 通有 公を 敵の様子
などを見舞いを兼ねて聞きに行った事を、 竹崎季長が絵巻物に、絵師に描いてもらい、
鎌倉幕府の政所に提出された絵巻物が、現在に伝わっているのです。
高麗の朝鮮人が攻めてきて、その後、どないなったんですか。」と、問うので、
「日本軍は、この夜襲で多いに士気が上がり、敵を海岸で釘付けにしていたの
ですが、 そうこうしているうちに、台風が来て、 翌日、海岸に行ってみると、
嵐で、敵の軍船は全部沈没して、壊滅したんや、これをやな、神風【かみかぜ】いう
んや。」と、説明すると、海軍中尉殿が、「 貴様、 面白いことを知っておるな、もう
少し詳しく教えろ。」と、言われめものですから、 河野水軍の末裔の、河野 栄男水兵と、
私達の会話は、多いに盛り上がり、 そうこうしているうちに、鉄道は広島駅を
【 戦前の広島停車場こと、広島駅の駅舎の古写真 】
出発しまして、一路、東に進んだのでした。
当時は、この故事にちなんで、一撃必殺の神風特別攻撃隊などが結成され、
4000人以上の多くの人が桜の花びらのように散っていくとは、大正10年当時
私は考えもしていなかったのです。
ましてや、 この必殺自殺攻撃を航空総隊 総参謀として、自らが主導していく
立場になるとは、いくら日本という国を守る為と言っても、心が痛む出来事で
ありました。
あの大東亜戦争とは、何であったのか、 どうして、そのような事になって
いったのか、なぜ、 多くの民間人が、焼け死ぬような事になっていったのか、
自問自答する日々です。
【次回に続く。】