第846回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第845話  海軍兵学校 消えた30人の生徒の事。    2014年6月16日 月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
   大正11年1月9日 月曜日の早朝、 「 プププププーープププープププププーープーー。」と、
 
   まだ薄暗い海軍兵学校の寝室内に、 起床ラッパが、鳴り響いたのです。
 
   私達が、在籍していた当時は、 冬場は、 通常は0530時より、体操があるのですが、
 
   30分遅く、0600時より、 南側練兵場で、体操があるのです。
 
 
 
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         いつも、眠そうな、井上 武男生徒は、 首筋をゴリゴリかきながら、急いで、寝台を
 
         整えて、 着替えて、整列して、私達はどっと堰をきった水のように 駆け足で、
 
         外に出るのです。
 
 
 
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           宮城の東方向に、天皇陛下に、拝礼して、父母のおあす方向に拝礼して、
 
 
           その次に、「 体操体形にひらけーーーっ。」と、 号令の後、 私達は、冬の
 
           寒い中、上着をぬぎまして、 素っ裸になって、 海軍体操をするのです。
 
 
           戦後は、海軍体操と言うのは、GHQに禁止されたのか、 なくなってしまい、
 
           だれもする人がいなくなってしまったのですが、 朝のNHKのラジオ体操とは
 
           一風違う体操でありました。
 
           それが終わりまして、 全員整列して、 年始の訓示を聞くことになったのですが、
 
           教頭先生の 丹生 猛彦 海軍大佐殿から、  成績の末尾から30名の生徒が、
 
           一般大学に、編入することになったと、 そんなお話を聞いたのでした。
 
           私達は、海軍兵学校から、一般大学に編入というお話がすぐには理解
 
           出来なかったのです。
 
 
 
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                     【  当時の海軍大臣   加藤 友三郎 海軍大将】
 
 
 
 
           時の本省派の海軍大臣、加藤 友三郎 海軍大将は、 軍縮のため、
 
           海軍兵学校の第52期生徒の1割削減を、12月に命令してきたようで、
 
           艦隊派の 校長の千坂 智次郎 海軍中将は、 いろいろ意見具申を海軍大臣
 
           にされたようですが、 状況は動かず、 解雇される生徒の事を考えて、海軍兵学校
 
           校長が、推薦状を書いて、 一般大学に編入させるという、奇策を取ったようでした。
 
 
 
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   【  大正10年前後の海軍兵学校の校長  千坂 智次郎 海軍中将 山形県米沢市出身】
 
 
 
       1度採用して、 海軍の短剣を授けた、生徒を、軍縮などと称して、退学させるのは、
 
        道理に合わず、と、ずいぶんと、やりとりがあったようです。
 
        当時、東京帝国大学より、難易度が高かったので、 よその大学に行っても、
 
         上位クラスの成績であるのは間違いのないことですが、 この後、加藤 友三郎
 
        海軍大臣は、 艦隊派の海軍中将を、十数人、 軍縮と称して、まとめて予備役
 
       にしてしまうのですから、予備役というのは、 退職と言う事でして、 海軍中将を
 
       首にするくらいですから、名のない海軍兵学校の生徒30人など、「への候。」で
 
       あったのです。
 
       大正11年から、 目に見える形で、 軍縮と称して、理不尽な整理が随時行われていき
 
       その都度、関係者から怨嗟の声が上がっていったのです。
 
       私も、源田も、 他の生徒も、 海軍省の本省派 という、軍人の派閥に、このこと以来、
 
       恨みを感じ、艦隊派と呼ばれる人々と、同調していく考えに、傾いていったのでした。
 
       私と、源田が、艦隊派と呼ばれる、派閥に属した、はじめの原因になっていったのです。 
 
 
 
【次回に続く。】