第887回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第886話 草鹿 龍之助 海軍大尉殿の事、2014年7月27日日曜日の投稿です。
大正11年3月の頃、 私達は、事情を知らされず、観閲行進の訓練ばかり、
海軍兵学校の南側の練兵場で、随分やらされまして、 足が痛くなるやら、それを
通り越して、足裏の感覚がなくなる程度、訓練が続いて、「 もう あかん、くたくた
やがな。」と、 苦労していた頃、戦艦 山城の分隊長をされていたのは、 草鹿
龍之介 【くさか りゅうのすけ】海軍大尉殿でありました。
ちょうど、 この頃、上司の戦友の紹介で、奥方をお迎えになり、 大阪の中之島の
ホテルで結婚披露宴をされていたようです。
終戦時に至る、大和沖縄特攻作戦など、 その中心にいた海軍中将で、わかりや
すく説明すると、 人間で言えば、背骨に当たる人で、その上に、南雲海軍中将や、
豊田連合艦隊司令長官が、頭として存在し、 源田や、私達は、指であり手であった
わけです。
草鹿 さんのお父さんは、草鹿 丁卯次郎さんと言われ、若い頃から政治家を志し、
自費でドイツに留学し、 ドイツ語の勉強などをして、アメリカに渡り、 政治法律を
勉強され、帰国してその希望した職に就けず、山口で教員をされていたのですが、
そこの山口で出世され、 幼少期は、山口ですごされていたようです。
名前は、たつ年に生まれたので、龍之介と、名付けられたようです。
父の勤務先の、そこの校長先生と石川県の金澤の学校の教員として移動され、
草鹿 龍之介閣下は、 少年期、 金澤の町で暮らされまして、 その後、お父さんが
住友銀行の大阪の支店長になる事になり、大阪に転居し、青春時代は、大阪ですご
されたようです。
この大阪の住友倶楽部の道場で、 無刀流の剣術を習われ、また、禅の修行もされた
ようです。
お話では、 着任早々、 副官には向いていないので転属を申し入れられたそうで、
私が、「どう向いていなかったのでありますか。」と、 水を向けてご本人に聞いて
みると、このようなお話を聞かせていただいたのです。
横須賀鎮守府 長官 というのは、 海軍大将が勤める重要ポストで、その副官と
いうのは、 いわば秘書というか、カバン持ちの仕事であったのです。
【 草鹿 龍之介 海軍大尉 のちの海軍中将】
草鹿 閣下曰く、 通常、車に長官がお乗りになる時は、副官という者は、 さっと、
ドアを開けけて、長官が後座席に乗られると、静かに後のドアを閉めて、 前の
助手席に乗って車がスタートするわけですが、 草鹿閣下は、 長官が乗られた後、
そのまま、長官の横に乗られてドアを閉めて、 海軍大将と一緒に後座席に乗られ
たそうで、 それを見ていた見送りの佐官から、 「 海軍大尉が、 長官と同席する
とは、何事か。」と、 随分やかましく、言われたようです。
私は、このお話を聞いて、目を丸くしたのですが、 さらに続けて、 「 私は、
横須賀鎮守府の副官であって、 長官の副官ではありません、手荷物はご自分で
御願いいたします。」と、 こう言われて長官の荷物など持たなかったそうで、 反面
長官が行事で挨拶される文面は、すべて、草鹿閣下が、 下書きされ、お渡ししていた
物を、長官がお読みになっていたそうですが、 これが名文と評判になっていったそうで、
当時の横須賀鎮守府長官は、財部 海軍大将であられたのですが、 「 変わった男
であるが、面白い使えるやつ。」と、 評価されていたようです。
【 海軍兵学校 校長時代の 草鹿 任一 海軍中将 】
よく同じ名字で、混同されるのですが、 草鹿 任一海軍中将は年上の従兄弟で、
金澤時代の少年期に、一緒にすごされていたようです。
草鹿 任一海軍中将も、 ラパウルに拠点を置き、補給が途絶えた中、 籠城戦を
行い、昭和20年8月の終戦まで、 死守されたことはよく知られています。
この物語で、 大正から、昭和の出来事をお話しする上で、 2人とも重要な方がたで、
私がお世話になっていきます。
事になったのでした。
角力とは、 相撲のことでありまして、 私達は、 まだ肌寒い3月中、 ふんどしに
なって、 相撲をすることになったのでした。
【次回に続く。】