第938回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第937話  宮内大臣 牧野 伸顕 子爵のこと。   2014年9月16日 火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
        
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     陸軍中将 宇垣 一成 閣下が、 田中 義一 陸軍大臣の書状を預かり、 元内閣総理
 
    大臣  西園寺 公望 公の自宅を訪ねたのは、 夜も更けてのことでありました。
 
    手紙を一読しますと、 西園寺公は、 「 宇垣 さん、 麻呂への書面、確かにうけとり
 
    候事、 田中 閣下にお伝えくだされ。」と、 短く返事をされ、 陸軍省の辞任を迫られて
 
    いる陸軍大臣の様子や、 周辺の緊迫した情勢などが当日打ち合わせされたのでした。
 
 
 
 
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                  【 陸軍の長州閥の代表者  田中 義一 陸軍大将  】
 
 
 
    田中 義一 陸軍大将からの書面には、 「陸軍参謀本部に、 宮内大臣 牧野 伸顕 
 
    子爵を,派遣し、事態の収拾に当たらせるべし。」と、短く書いてあったのです。
 
 
 
 
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                      【  牧野 伸顕  子爵   【 伯爵当時】  】
 
 
    ところで、牧野 伸顕  【まきの のぶあき】 子爵 【ししゃく】 と言う人は、初めて登場する
 
    ので読者に説明し、紹介するのですが、 明治維新の頃、 江戸時代の終わりですが、
 
     薩摩の国、 鹿児島で、 かの維新の功労者、 大蔵卿 大久保 利通公の次男として
 
    誕生され、 戊申戦争中、 親戚の従兄弟の牧野 吉之丞 が、 つまり、おじさんにあたる
 
    人が、新潟で戦闘中、戦死され、 名前のみ、牧野の家を相続されたのです。 
 
 
    
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            【  西園寺公のヨーロッパ歴訪時の写真  左が牧野 伸顕 子爵】
 
      
 
         西園寺 公の懐刀と呼ばれ、 伊藤博文公にも重用され、 文部大臣、農商務大臣、
 
         外務大臣を歴任し、 大正10年9月より、宮内大臣を務めていたのです。
 
         鹿児島出身の、大久保 利通 公の実子と言う事で、 陸軍の薩摩閥にも広く
 
         人脈があり、 また、 山縣 有朋 公の長州閥にも、伊藤 博文 公に使えていた
 
         時に、 幅広く人脈を作り、 人から人望のある政治家であったのです。
 
 
 
 
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        昭和天皇事、 当時の 摂政 東宮 裕仁殿下は、 牧野 子爵を随分と頼りにされ、
 
        何事も、困ったことがあったら、 相談されていたようです。 
 
 
 
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        牧野 伸顕 子爵の娘は、内閣総理大臣 吉田 茂 先生の奥方で、
 
        また、 その娘が、 現在の 自由民主党衆議院議員 麻生 太郎 先生の
 
        奥方で、 連綿として、 政治家の血筋が続いているのです。 
 
 
         田中、義一 陸軍大将は、 宮内大臣の牧野 伸顕 子爵を、 摂政殿下の
 
        勅使として、 陸軍参謀本部に派遣して、摂政殿下の内意を、陸軍参謀総長
 
 
 
 
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           上原 勇作 陸軍元帥に伝え、 陸軍参謀本部に、シベリアからの撤退が、
 
           摂政殿下の内意という、 口実をあたえて、 撤退から反対する陸軍高級将校や、
 
           シベリアからの撤退に反対している、 陸軍の物資搬入業者に、勅命という
 
           ことを知らしめるべしと言う、 そういう意見具申であったのです。
 
 
 
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           西園寺公は、 「 しんけんさんのことは、麻呂にお任せあれと、田中 閣下に
 
           お伝えください。」と、 帰り際に、宇垣 閣下に言葉をかけられ、 この時、
 
           しんけんさん と言う意味が、やっとわかったのです。
 
           牧野 伸顕 と書いて、 伸顕を読み方を変えると、しんけん と読んで、
 
           当時の政治家の間で、 しんけんさん と言う呼び名は、牧野 宮内大臣
 
           事だと悟ったのです。
 
 
          【次回に続く。】