第939回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第938話 陸軍第1師団 師団長の説得の事。2014年9月17日 水曜日の投稿です。
宇垣 一成 陸軍中将は、翌日の大正11年6月26日 早朝、 東京の当時
第1師団司令部がおかれていた、 赤坂桧町の第1連隊司令部を訪れたのです。
その目的は、 元々は海軍が横須賀の陸戦隊を、海軍省の警備と称して、転進
させたのが原因ですが、 陸軍参謀本部がその対策として、陸軍の第1師団の内、
2個連隊を陸軍省周辺に、展開していたのです。
田中 義一 陸軍大将は、 これらの末端の兵士、 または、血気盛んな若手将校が、
海軍部隊と、衝突して、騒動になる事を懸念して、 これらの部隊を早期に撤退させ、
兵営に戻すべきだと考えられていたのです。
ここで、読者のみなさんに、 東京の陸軍の配備状況を簡単に説明しますと、
当時、大きく分けまして、2種類の陸軍の軍隊が存在していたのです。
そのひとつとは、天皇陛下の居城の当時は宮城【きゅうじょう】 と、呼んでいた
のですが、現在の皇居を防衛する、近衛師団 【このえしだん】 があり、 その
管轄下に近衛歩兵第1連隊 から、 第4連隊の4個連隊で構成されていたのです。
これらの近衛連隊は、 近衛第1連隊が、 通称 東部第2部隊。
近衛第2連隊が、 通称 東部第3部隊。
近衛第3連隊が、宮 3802部隊
近衛第4連隊が、 宮 3803部隊と呼ばれていたのです。
そして、もう一つは、 これからのお話の中心となる、 東京第1師団 というのが
ありまして、 この師団長は、陸軍中将が務め、 参謀長は、陸軍少将が務め、
東京府 赤坂桧町に、 東京歩兵第1連隊 通称 玉5914部隊
東京府 麻布に、 東京歩兵第3連隊 通称 豊5620部隊
千葉県 佐倉に、 佐倉歩兵第57連隊 通称 玉 5916部隊
という、構成でした。
大正11年6月当時の東京第1師団長は、 西川 虎次郎 陸軍中将でありました。
あって、第13師団というのは、 廃止になるのですが、 西川 虎次郎 陸軍中将
は、第1師団の師団長に就任する前は、 新潟の第13師団長で、 シベリアに
出兵し、進軍していった陸軍の将官の一人だったのです。
みなさんもそうだと思いますが、 寒いときは零下50度近くまで気温が下がり、
その地域を占領するのに、多くの部下が、戦死したり、負傷したりしますと、
その地域を、放棄して撤退しろと、 こう言う事を言いますと、 反発したくなるのが
人情というものです。
とうぜん、 当時の西川 虎次郎 陸軍中将は、 シベリア撤退 反対派であり、
年は、宇垣 閣下が、上でしたが、 西川閣下の方が、陸軍大学の卒業年次が、
たしか、陸大11期 宇垣 閣下が、 陸大14期で、 海軍式に言えば、
西川 虎次郎 閣下が、年下ですが、格上の将官であったのです。
宇垣 一成 閣下が、 陸軍省周辺に展開する、兵力の帰隊を促したところ、
参謀本部より、「撤収命令が出ない限りは、 兵は引けない。」の、一点張りであった
のです。
そして、 どうして、海軍がワシントンで約束してきた、権限外のシベリア撤退を
陸軍が実行しなければならないのか、 もともと、 海軍の軍縮の国際会議の
ために、海軍大臣がワシントンに出向いたわけで、 陸軍に相談もなく、 勝手に
約定したことを、陸軍が受け入れるわけにはいかないと、 こういう口上であった
のです。
そして、小田原評定の末、 時間ばかりが経過していったのです。
【次回に続く。】