第945回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2014年9月23日火曜日の投稿です。
集中して行われていたのです。
まっ、もっとも、 ガキの頃から、当時は相撲は盛んでして、戦後の子供は、サッカー
や、野球や、 ドッチボールなど、現在は盛んですが、 私達の当時は、 コマに、
よく遊ぶ手段でありました。
私がテレビなどで、大相撲を見ていますと、大きな体格の力士が、相撲を取る
生徒は、 中腰で、 ずっと、そんきょの姿勢で、両手は、 両ももの上において、
静かに観戦しないといけなかったのです。
【 海軍兵学校 そんきょの姿勢 大変だったのです。 】
5分もしてきますと、足首がいたくなりまして、それはそれは、大変であったのです。
戦後の大相撲というのは、 土俵の綱から前に出て、 ぐっと腰を落として
両手のにぎりこぶしを、 中央の線の上に置いて、 体当たりしていきますが、
始まるわけです。
と言うことは、 対戦相手の2名の間隔が、ずいぶんとあるのですが、
「 おーーーーーーーーうーーー。」と、 腹の底から、声を出し、気合を
入れて、お互いがぶつかり合うのです。
戦後の大相撲では、 いなし とか、 はたき込みとか、 相手の当たりを、
かわして、体を引いて、 相手を土俵に落とす、技がありますが、 私達の海軍
兵学校では、そういうことをしますと、仮に、勝ったとしても、「 卑怯千万、何事か。」
と、ずいぶんと指導を受けまして、 連帯責任として、分隊全員で、南側の練兵場
を10周してこいとか、 制裁訓練を課せられたのです。
では、とのような取り組みが奨励されていたかというと、 前に前に猪突猛進する
攻撃型の角力こそが、正統であるとされていたのです。
骨を絶つという、 そういう実戦的な物で、 防御の事を考えていると、どうしても
攻撃が中途半端になるので、防御の事を一切考えず、 突撃して、肉弾となって
体当たりし、一撃必殺の精神が、求められていたのです。
剣道にしましても、柔道にしましても、 角力にしましても、 見敵必戦の精神と
いいまして、 自分達が小さな兵力でも、相手が大艦隊でも、 敵を見たら、
臆することなく、 突撃して、攻撃する事こそが、 武人の鏡とされていたのです。
これらの無謀な攻撃精神の教育は、 だんだん宗教色を増していき、昭和20年
の敗戦まで続いていくのですが、 将校がこれらの無謀な教育を受け、 作戦を
立て部隊に指導していったので、 多くの無謀な突撃によって、戦果が上がるとき
もあったのではありますが、 日本が敗北していく大きな原因になっていったのです。