第1054回 中国共産党と田中角栄先生の取引を考える。
みなさん、こんばんは、模型公園です。 2014年10月4日 土曜日の投稿です。
今日の模型公園の家の近くは晴天で良いお天気です。
今日のおままごとの紹介です。
今日は、何か安い物はないかしらんと、テクテクしていると154円のハモの
ちくわが半額の77円でした。
今日は、余った食材を利用して、 お料理を楽しんで見ることにしました。
今日は、スープにお豆腐を入れるのですが、 小さく細工カットして、
準備をしていきます。
マッシュルームをこんな感じでクッペしていきます。
オクラをブラッシール【湯通し】して、 ちくわに入れるのですが、
「 おおっきいーーーー。」 なかなか入りません。
ぐいぐいを動かしながら、 入れていきます。
中に入れて、斜めにカットして、 門松の飾りのように、斜めにカットします。
今日は、タマネギとにんじんのスープ、 お豆腐を入れて、 浮かせてみました。
小さなお豆腐も、 こうするときれいでしょ♪
味は、醤油ベースで、 作って見ました。
今日は、残り物で作ったので、恥ずかしいのですが、 こんな感じに
盛りつけてみたのです。
上から、粉チーズを少々と、 パセリを添えて出来上がりました。
じゃーーん,今日のハモのちくわセットの出来上がりです。
こうしてね、以前 キムチをちくわに入れたのを紹介したのですが、
オクラを湯通しして入れても、美味しくいただけるのです。
今日は、リケンの【 クセになるうま塩ドレッシング】 というのをつけつけ
いただきます。
貧乏書生、丸出しですが、 こうしてね、 刺身のように漬け漬けいただくと、
上からどっさりかけて、 池の様にして、その後、廃棄するより、経済的です。
僕は、煮卵が好きなのですが、なかなか美味しかったです。
スープも、なかなか良い味でした。
今日は,原価が200円程度、 作業時間15分程度の素人料理の
紹介でした。
今日もとっても美味しかったです。
今日の模型のお話です。
今日は、飛行甲板を接着して、 固定しました。
艦橋を組み立てました。
今日はおおすみの難しい後部ハッチを取り付けます。
こんな感じで、接着固定して、乾燥させます。
【 来週に続く。】
日本の昭和16年から19年にかけて、 東条英機さんは、 アジアを欧米の
植民地から解放し、日本を中心とした、大東亜共栄圏という構想を推し進め
これらを無責任な新聞社、ラジオを使用して、宣伝し、多くの農村の人が、宣伝に
踊らされて、 兵隊に志願したり、 満州の開拓に志願したりと、いろんなことが
おきていったのです。
ナチスドイツの党大会の宣伝映画の影響からか、 大東亜結集国民大会
と銘打って、 大きな宣伝活動を行って行ったのです。
国民には、「 皇軍、連戦連勝、 快進撃。」 と、 無責任な新聞が煽動し、
多くの人がだまされていったのです。
日本の満州の開拓をして入植していた人達は、これらを信じ、日本は戦争に勝って
いると安心していたのですが、ご主人に召集令状が来て、兵隊に取られて、 奥さん
と子供だけと言う世帯が当時増えていったのです。
昭和20年8月 突如、ソビエト軍が攻めてきて、当時の人の話では、 村を
包囲して、無差別に、初めに機関銃で、バリバリ射撃して,窓から外を見ていた
人が頭を打たれたり、 手榴弾でドアを吹き飛ばして、兵隊が家の中に入ってきて、
略奪が始まったのです。
ロシア人が喜んだのが腕時計と食糧で、 抵抗したら射殺されて、 比較的
若い女の人は、両手足を押さえられて、裸にされて、 もてあそばれ、 殺されたり、
守ってくれるはずの日本陸軍は、 トラックに乗って逃げてしまい、 中国大陸に
取り残されて行ったそうです。
ソビエト兵は、 手首から肩まで、日本人から奪った、腕時計をいっぱいつけて
略奪の数の競争していたようで、 多くの人が命を落としていったのです。
運良く生き延びた人は、 着の身着のままで逃走するのですが、 ここで、今度は
中国人や、朝鮮人に襲われて、 リンチを受けたり、殺されたり、 当時のお話では
お金を出して、 食材を売ってくれないかと頼んでも、 財布を取られて、
殴られて、たたきのめされたそうで、 そんな状態で、 母親とはぐれたり、
親が殺されたりして、 その人の遺骨は、 大陸に放置され、 当時の幼児は
戦争孤児で飢え死にしたり、病死したり、 当時を知る人は、 それはそれは
悲惨な体験をされたようです。
間違いであったと、 指摘する有識者が増えていますが、 よく掘り下げて勉強すると
たちの遺骨を日本に持ち帰ることと、 孤児になった、日本人の子供たちを、なんとかして
中国共産党と交渉して、 日本に連れ帰りたいと,考えられていたのです。
その後、日本の善良な国民も、戦争の被害者であると説明し、 多くの悲劇を話して、
理解を求め、戦争賠償の放棄を求め、 取り残されていった人達の救出をしようとしたの
です。
台湾と、 つきあいし、 中国共産党と、戦争状態のままでは、これらの案件は中に
浮いたまま、 戦後の政治家が、放置してきた事でした。
特に、 自らが新京の興亜院で官僚として勤務し、 多くの悲劇を見ていた、
当時の外務大臣 大平 正芳先生は、 この問題を重要視して、 なんとか、
当時の被害者を、政治家として何とかしたいと、考えられていたのです。