第957回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第956話  ウクライナ戦争のこと              2014年10月5日 日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
  7月に中国共産党がわずか12名で、上海で結党された経緯は、昨日紹介したのですが、当時
 
中国大陸は、日本の戦国時代のように、武装勢力の群雄割拠する状態で、以前紹介しましたが
 
「 このままでは、 欧米の植民地になってしまう、 団結しなければならない。」と、 孫文先生が
 
 
 
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                  【  中国人の団結を呼びかけた  孫 文 先生 】
 
 
   呼びかけて、軍閥の連合体のような、中華民国が成立したのですが、 武力を持たなかった、
 
   孫文先生は、軍閥に追い出されて、 また、分裂し、 その過程は以前詳しく紹介しました。
 
 
 
 
   広東に逃れた,孫文先生は、 日本陸軍の協力で、 国民党を結成し、 武力で中国を
 
   統一するしかないと考えるようになり、 岡山県の政治家、 犬養 毅 先生に助力を
 
   懇願し、 幹部となるであろう、日本への中国人留学生の受け入れや、 軍事顧問の招聘を
 
 
 
 
 
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              【 日本陸軍  国民党 軍事顧問   佐々木 到一 陸軍少佐 】
 
 
     
         行い、 日本陸軍から、佐々木 到一 陸軍少佐が派遣され、日本式の軍隊の
 
         育成や、日本式の党の組織作りが、中国の広東で始まったのです。
 
 
 
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                      【  若い頃の 蒋介石  しょうかいせき 総統 】
 
 
 
         当時、国民党で教員の立場にあった、 蒋介石さんに、 孫文先生は、ロシアの視察と、
 
         共産主義についての視察を命じ、 後に、国民党の総統となる蒋介石さんは、 モスクワに
 
         調査に出向くのです。
 
         そこで目にしたのは、 略奪と、殺人と、働きアリのようにこき使われる人民の姿と、
 
         強権恐怖政治であったのです。
 
         
 
 
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           当時、レーニンなど、ソビエト共産党幹部を悩ましていたのが、食料問題でした。
 
           冬場は、マイナス50度近くになり、 農作業や、商工業が大幅に制約を受ける
 
           ロシアの国土は、 共産革命で、荒れ果て、 搾取し尽くされ、次の搾取の場所を
 
           どこにするかという事で、目標になったのが、ウクライナポーランドであったのです。
 
 
 
 
 
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        この地域は、比較的南部は温暖で、穀倉地帯が広がり、彼等はここに目をつけたのです。
 
         そして、南部の港街は、冬場も海面が凍結せず、貿易や軍港として魅力があったのです。
 
        ここに、 イナゴのように共産党が押し寄せ、 村々を襲って、 地主や、教会を破壊し、
 
 
 
 
 
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            ウクライナ 共産党が設立され、 どんどん共産化が進でいったのですが、
 
            その手口というのは、 その村の地主や、裕福な人など、なにも罪の無い人を
 
            共産党の軍隊が「 資本主義者。」 と言って逮捕し、 同日、 村人を広場に
 
            強制的に集めて、 形だけの裁判を開くのです。
 
 
 
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           それが、その地域の地主であったり、 大きい商店の店主であったり、教会の
 
           神父さんであったりしたのですが、 この裁判を、人民裁判と呼びまして、
 
           ここで、一方的に、死刑を言い渡して、 住民の前で、家族も一緒に処刑する
 
           のです。
 
           つまり、見せしめに処刑されるわけです。
 
 
 
 
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          そして、 恐怖におののいた住民から、共産党への忠誠を確認し、反対する人を
 
          処刑していったのです。
 
          そして、「 本日から、土地、家、食料物資は、国家の物である。」と宣言し、 
 
 
 
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          それまでの税金というのは、生産量の半分程度であったのですが、共産党は、
 
          ここの畑も、 農作物も、家も、 国家の物だと言って、 穀物を全部持っていって
 
          しまうのです。
 
 
 
 
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            結果、ウクライナ南部では、飢饉が発生し、多くの人が餓死したりする事態
 
            にいたり、 初めは農民の一揆のような形でしたが、 ソビエト共産党との
 
             戦争に発展していったのです。
 
 
 
 
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           ウクライナの政府に軍事支援したのは、イギリスやフランス、オーストリアなどの
 
          西洋諸国で、 彼等は共産革命をウクライナを支援することで、防波堤にしようと
 
          考えたのです。
 
 
 
 
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            レーニンソビエト共産党は、食料物資を求めて、ポーランドにも侵入し、
 
            この戦争で、多くの市民が死亡し、 統計はないのですが、10人に1人は
  
            必ず殺されていったという話が定説です。
 
 
 
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         当時のソビエト共産党武装武力革命 政治用語で ボルシェビキ革命といいますが
 
        マルクス先生の計画経済とはかけ離れた、 山賊のような、武力搾取経済であった
 
        のです。
 
         不足する食糧や物資を、豊かな西の地域の穀倉地帯から略奪し、 モスクワに持ち帰り
 
 
         必要最低限分配し、 自分達は、豊富な物資で、 豊かな暮らしをしていたのです。
 
 
 
 
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          こう言う実態を、モスクワに留学し、マルクス主義の本を読んだり、現地を視察した
 
          蒋介石さんは、 共産主義というのは、 危険な独裁武力専制政治と感じ、
 
          農村で繰り広げられる、 話の良い共産党の宣伝行為と、 その次の見せしめの
 
          処刑、  住民からの略奪搾取、  穀物生産のノルマを達成しない村人には、
 
 
 
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          武力で、処刑したり、 村全体をシベリアの強制労働所に送り、 あいた農地に
 
          ロシア人を移住させて、 コルホーズと呼ばれる、共産党の集団農場を作って
 
          行ったのです。
 
 
 
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          これらの事に、初めはウクライナの小作農の人も、共産党の宣伝にだまされて
 
          教会や、 地主を一緒に攻撃していたのですが、我に返り、自分の国を守らない
  
 
          といけないと考えるようになっていったのです。
 
 
 
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          共産党というのは、 地主や、領主、皇帝、商店、商売人、宗教家を否定し、
 
          ことごとく 商店や、教会などを破壊して行ったのですが、気がついてみると
 
          ウクライナの人々も、ポーランドの人々も、それが間違いであったことに気がついた
 
          のですが、 気がついたときは、遅かったのです。
 
 
           
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           ちょうど私達が海軍兵学校で勉強していた、1921年当時、 ウクライナは、
 
           レーニンの 共産党武装組織に制圧され、 ソビエトに併合されてしまうのです。
 
           そして、どんどん、南部のタタール人の人や、 ウクライナ人の人は、 ソビエト
 
           共産党に逮捕され、 シベリアの強制労働収容所に送られ、こき使われて
 
           死んでいき、 代わりにどんどん、 極寒の地からロシア人が、比較的温暖な
 
 
           ウクライナの土地に入植してきたのです。
 
 
 
 
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          私が、朝鮮半島の人に、 日本が統治していた当時が比較的平和であったという
 
         お話を紹介したと思いますが、 理不尽なことも多々あったと思いますが、 周辺では
 
         このような恐ろしい事がおこっていたのです。
         
 
         日本が日露戦争をせずに、 模様眺めに終始して、日本が朝鮮半島を統治して
 
 
         いなかったら、間違いなく、 ソビエトのロシア人に中国東北部、 朝鮮半島は占領
 
         され、共産化して、  朝鮮人は強制的にシベリア内陸部に移住させられて、
 
         南部の温暖な工作地帯には、ロシア人の集団農場が出来ていたでしょう。
 
 
 
 
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          国民党の蒋介石さんは、 中国に帰国して、 孫文先生にありのままを報告され、
 
          以後、  共産主義というのはとんでもない政治手法と考えるようになり、
 
          その後、国民党の幹部となり、共産党を武力討伐して、根絶やしにしようとするのです。
 
 
 
 
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           当時、毛沢東は、一向に共産党員が増えないので、国民党に入党し、
 
           国民党の党員を 共産主義に染めて、自らの配下にしようと計画し、着々と
 
           シロアリのように、国民党をむしばんでいたのです。
 
 
 
 
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            戦後の現在、 台湾の国民党に、毛沢東主席が、入党して、国民党の党員
 
           であったと、 知る人は少ないのですが、 史実でして、 中華人民共和国
 
           人が知ったら、びっくりすることでしょう。
 
           都合が悪いので、 知る人は抹殺され、毛沢東の国民党時代の記録は
 
           歴史から消されていったのです。
 
 
 
           【 次回に続く。 】