第956回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第955話  中国大陸での中国共産党の結成のこと。   2014年10月4日 土曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
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       みなさん、戦中、戦後の日本の歴史を語る上で、 切り離せないのが、中華人民共和国
 
    を支配する、中国共産党を除外して、歴史は語れないのです。
 
    中国共産党は、 ソビエト連邦の共産革命に影響を受けて、設立された政党であり、
 
 
 
 
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           ソビエト連邦を支配するのは、 ソビエト共産党でありました。
 
           では、 そのソビエト共産党が出来ていった原因というか、種をまいたのは、
 
           勉強して見ると、日本人で、 指示と予算をつけて推進したのは,日本の
 
 
 
 
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          山縣 有朋 公で、  山縣有朋 公を 動かしていたのは、 伊藤 博文 公で
 
          あったのです。
 
 
 
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        太平洋戦争の敗戦の原因のひとつに、 東条内閣が、和平の外交工作を打たずに、
 
        サンタクルーズ海戦後に、アメリカの航空母艦が全滅し、 和平の時期を逃し、
 
         破綻していったというのは、重要なポイントですが、 日清戦争日露戦争とも、
 
         伊藤 博文 公は、 戦争を始めると同時に、 和平工作の準備を進めて、
 
         日本が初戦で勝利し、条件がよい時に、和平を結んで、戦争を終わらせていた
 
         と言うことが、 歴史の重要なポイントです。
 
         伊藤 博文 公は、日本に長期戦の国力は無いと、分析し、 短期で戦争を
 
         終わらす手配を当初からしていったのです。
 
 
 
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            ここが、外交音痴の東条英機さんとの違いであったのです。
 
 
          伊藤 博文公は、日露戦争開戦前夜、 山縣 有朋 公に命じて、陸軍の秘密資金
 
          当時200万円を使用して、ロシア国内での攪乱煽動作戦を命令します。
 
 
 
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            その中心となったのが、ストックホルムを拠点として活動していた 陸軍の
 
            特務機関 明石 元二郎 陸軍大佐の秘密諜報組織でありました。
 
            通称、 明石 機関と呼ばれた部隊は、 ロシア国内で、武器や金銭を撒いて
 
            ロシア革命を煽動していったのです。
 
            そこで、日本陸軍の明石機関が使用したのが、 カール マルクス共産主義
 
 
 
 
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            の本や、エンゲルス共産主義計画経済の本でありました。
 
            明石 機関は、 ロシア人を雇い, ロシア国内をスパイ偵察し、情報を収集し、
 
            ロシア皇帝の反対勢力に武器や、共産革命の本をロシア語に翻訳して、ばら
 
            まいて行ったのです。
 
 
 
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           レーニンは、 日本政府を利用して、 資金や、武器、共産革命の本を使って
 
           武力による共産革命、 ボリシェビキを進めていったのです。
 
 
 
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            日本が日露戦争で勝利した形で、 早期和平を結び、 ロシアからの賠償金
 
            も放棄して、終戦させたのですが、 その後、 それらのまいた種は、一人歩きし
 
            ソビエト共産党となり、 レーニンが狙撃され、病床に伏し、御側用人であった
 
            スターリンの独裁政治という形で、どんどん大きくなっていったと言うのが、
 
            歴史の大まかな流れです。
 
 
 
 
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           マルクス先生が、フランスで言葉巧みに、出資を募り、 共産主義の本を
 
           出版し、 まったく事業として成り立たず、 借金が返せなくなり、イギリスに
 
           亡命するのですが、その本は、 中国語に翻訳され、 時を経て、北京大学
 
            の図書館に納められたのです。
 
            そして、この本を読んだ人が、 北京大学の図書館の 李 大釗 【 り たいしょう】
 
            と言う責任者の人でした。
 
 
 
 
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                       【  早稲田大学卒  李 大釗  】
 
 
            彼は,日本の大隈 重信 公の作った、早稲田大学の前身の学校に留学し、
 
            軍閥が争い、分裂している中国大陸を、共産主義の国家に統一しないといけない
 
            と、マルクス先生の本を読んで考えるようになっていったのです。
 
            そして、配下の 図書館の司書であった、長編の三国志ばかり読んでいた
 
 
            若い職員に、マルクス先生の本を紹介したのですが、 その図書館の司書とは、
 
           当時は平の図書館の職員であった、 毛沢東であったのです。
 
           つまり、毛沢東さんのサイコロすごろくのスタートは、図書館の職員であったのです。
 
 
 
 
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                           【   若い頃の 毛沢東 】
 
 
 
           そして、日本の日本大学で留学していた、 董 必武 という人と一緒に
 
           中国に共産党を設立して、 中国を共産党で支配していこうと、 こういう
 
           構想を進めていくようになったのです。
 
 
 
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                        【  日本大学卒  董 必武  】
 
 
           そして、3人は、 三国志の桃園の誓いのように、 杯を交わして、当時、
 
           北京大学で、 顔が広かった、 陳 独秀を訪れ、 共産党設立に動いて
 
           行くのです。
 
 
 
 
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                             【  陳 独秀  】
 
 
            厳密に言うと、北京大学の図書館で、 武力も持たない、図書館の職員の
 
            3人組から、 巨大な中国共産党の前身が始まり、 その後 舞台を上海
 
 
            
 
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           に移して、 上海でわずか12人という数字で、1921年7月に、中国共産党
 
           第1回設立総会が開かれたのです。
 
          
 
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             後の歴史は大きくうねっていくのですが、 最後まで天寿を
 
            全うしたのは、毛沢東と、 董 必武の2人だけであったのです。
 
            その他の人は、 党内の内ゲバ事件で殺されたり、 命を落としていったのです。
 
 
 
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            こうして考えて見ますと、 台湾の国民党の前身を作って組織作りしていったのは、
 
           日本陸軍で、 孫文 先生をトップに、 日本陸軍の 佐々木 到一陸軍少佐が
 
           采配を振るい、 国民党を作っていき、 日本人は、中国社会に大きな影響を
 
            与えたと言ってよいと思います。
 
 
 
 
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            私達が海軍兵学校で勉強していた当時、 日本国内では、日本共産党
 
            渋谷で7月に設立され、  また、中国でも、暑い 7月に、上海で設立されて
 
            行ったのです。
 
            そして、 暴力組織に発展していった、 中国共産党は、多くの人を死に追い
 
 
 
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             やっていき、 巨大な独裁国家政党に成長していくのです。
 
 
 
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              これから少しずつ、その膨張の過程を一緒に勉強して行きたいと思います。
 
 
 
            【次回に続く。】