第977回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正11年7月29日の土曜日、 海軍兵学校 第52期の生徒は、 監事殿や、その他の人を
入れると、約300名近くの人員で、23隻程度で縦従陣の陣形で、 目的地の宮島の包ヶ浦の
砂浜を目視できる程度まで、近づいたのです。
日本海軍では、命令を発する旗艦という、司令船は、 必ず隊列の先頭を承るのが、
艦隊の陣形を世襲した物でした。
又、後日順番に紹介して行きますが、 これらの明治の古典的な考え方は、昭和になって
第2次ソロモン海戦での大敗北につながっていきます。
先頭の、頭脳優秀組の第1分隊のランチが、手旗信号で、 「左弦に変針、隊列
横従陣の陣形に、転舵せよ。」 と、 信号を発しますと、 日本海軍では、 信号を
受信すると、 後の艦に、又、同じように信号を、随時送っていく、 そういうシステム
でありました。
つまり、確実に受信し、 後の艦に送信しないと、 昭和17年6月7日に発生した、
栗田艦隊の巡洋艦 三隈と、最上の衝突事件のような、事故に発展していくのです。
先頭のランチが、 左に転舵して、 停船すると、 その横に並ぶように、次々転舵して
横一線に、ランチが並びますと、 今度は横一列になって、 包ヶ浦の砂浜に、こぎ寄
せたのです。
少し手前で、 船底が破損しないように、停船して、慎重に砂浜にランチを引き上げ、
私達は、整列し、口々に番号を叫んで、 点呼を行い、整列したのでした。
古田中 監事殿が、「 全員 注目。」 と、大声で号令を出すと、私達は、注目したのです。
「 本日から、7日間、 第52期の生徒は、 ここ、宮島の包ヶ浦にて、幕営を行うが、
海水浴などの遊びに来たのではない。
よいか、 ここで、 幕の組み立て、 収納、 もし、 万が一、 遭難し、無人島に
漂着し、 救助を待つという想定の下、 自活の訓練を行う為である。
各員、 ケガなどないよう、 又、 兵学校を離れての実習となるので、一般の
宮島の島民や、 そのほかの事で、事故を起こさぬよう、 心がけよ。」
昼の糧食を、ここの砂浜で作る、 時間はあっというまに過ぎる、機敏に行動せよ、
以上、終わり。」 と、訓示があったのです。
私は、海水浴かと思って楽しみにしていたのですが、「 なんや、 飯かんと
あかんのか、この暑いかんかん照りに、えらいこっちゃ。」と、 思ったのです。
当時、朝の涼しい時間から、 日が照りつける暑い日中になり、砂浜は熱く、
青い空に白い夏雲が動いていたのを記憶しています。
【次回に続く。】