第1002回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1001話  大正時代の可部線の事。             2014年11月19日水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
   
イメージ 1
      
 
 
               【   昭和初期の 広島停車場 こと、 広島駅の駅舎 古写真 】
 
 
 
          自分と兄の松三は、偶然広島駅で出会い、 現在の可部線、 大正時代当時は、
 
           軽便鉄道と呼ばれていたのですが、 可部まで乗って帰ることにしたのです。
 
          自分の実家のある、広島県山県郡加計町までは、当時線路がつながっていなくて、
 
          当時の終点は、たしか、可部駅でありました。
 
          その後電化されて、 電気で走行する、電車になっていき、加計まで開通するのですが
 
          それは戦後、随分後の事でした。
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
 
             当時の可部線というのは、まだ国鉄ではなく、 私鉄で、 広島軌道株式会社
 
             と言う会社が鉄道を経営していたのです。
 
             自分の実家がある、山県郡加計町と言うところは、 瀬戸内海側と、日本海側の
 
             ちょうど中央で、 現在の中国自動車道を越えまして、 少し行くと、川のそばの
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
           静かなところで、 さらに奥に進んでいくと、現在は大きな温井ダムと言う
 
           ダムが出来ていて、その下流に位置します。
 
 
 
イメージ 4
 
 
           ここの、 川沿いの東側に 小高い林があって、 墓地があるのですが、
 
           そこの西側に、 三千七百四十番地 というところが、わが源田家でした。
 
           当時、 現在の横川駅の近くですか、そのあたりに,始発駅があって、
 
           そこから、 軽便鉄道に乗って可部を目指したのです。
 
 
 
イメージ 5
 
 
 
           これらの鉄道が出来るまでは、 徒歩か、川を下るしかなかったのですが、
 
           明治39年10月に、現在の可部線の前身の広島軌道株式会社が設立され、
 
           私達が利用できるようになったわけです。
 
           
           
イメージ 6
 
 
 
          鉄道というのは、 大量に人や、物資を毎日安定して運ぶことが出来、
 
          中国山地の中央部の我が家などに、非常に経済的恩恵をもたらしたのです。
 
          兄の松三は、「 やれのう、また、鉄道か。」と、 愚痴をこぼしたのですが、
 
 
 
イメージ 7
 
 
          考えて見れば、東京駅から、広島駅まで、 随分疲れます、 当時の客車は
 
          エアコンもありませんし、扇風機もまだありませんでしたし、窓を開けますと、
 
          煙が入ってきまして、 大変でありました。
 
          反面、自分は、広島のおばさんのところで、一泊し、 元気満々でしたが、
 
          暑い8月の日差しの中、 兄と一緒に、故郷の加計を目指したのです。
 
 
 
【次回に続く。】